ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

40. 伊藤勇雄の「人類文化学園共働農場」 ~多様民族文化共生主義思想~ 

 岩手の高原地帯に暮らす、社会的地位もあった思想家:伊藤勇雄は、ある時全てを投げ打って南米に移住を決めました。

 

 彼は70歳に届こうとしていました。

岩手において、社会運動や、農民運動、そして地域造りなどに情熱をかけて村議、県議、県教育委員長なども歴任し、県内で手がけた開拓事業も成功し全てが安定した時でした。しかし、彼には人生において残されていた夢が残っていたのでした。

 それは、「大自然の中に、国境、人種、文化の違いを超えた人々が集まり共に働き、学び合うことのできる理想社会」を造ることだったのです。

 南米移住は、苦しい日本の生活環境から逃げ出して人生を新しくやり直そうとしたり、また、一策千金を狙った冒険心の強い若者のひとつのチャンスでしたが、この老人だけは他の者とはまったく違った考えで移住を計画していました。

 

自分が生涯課題としていた「理想郷」造りの一プロジェクトであった「人類文化学園という夢に対して、悔いのない人生を締めくくろうとするための最後のお勤めといったものでした。


 現実的に自分の余力を計算した上で夢の事業の後継者へ引継ぐための下準備をしようというものでした。

   彼は1968年3月、家族を引き連れて横浜港を出発し、50日の旅程を経てパラグアイのイグアスというところに入植し、そこで海外移住事業団が造成した300ヘクタールの未開地を手に入れ、ジャングル開拓に入り、自ら先頭にたって原始林を切り開き、家を建て、畑を耕すという大変な重労働を機械化することなく、家族と雇った人夫たちの手作業で行いました。


   大きな夢を追った開拓なので、仕事には情熱と夢が原動力となり、毎日が発見と新しい体験として充実した日々をおくり、勇雄は日本での開拓の経験を生かして、移住地の電化事業なども達成させ、果樹が実りだし、畑に植えた多様な作物が農場の自給自足を達成できた6年目に年末旅行の旅先で持病の腸閉塞でなくなりました。情熱がまだ感じられる76歳でした。

 

 

伊藤勇雄の生い立ち

 彼は、岩手の小さな農家の跡取り息子でしたが、向上心に燃えて、親が連れてきたいいなずけを置いて、家を飛び出し上京し、働きながら英語やエスペラント語を学び、トルストイホイットマン、ペスタロッチなどの影響を受け、内村鑑三と出会い、そして武者小路実篤とも出会い、九州の実篤のユートピア造り「新しき村」運動に参加したりしました。

 そして、東京に戻った時に関東大震災に遭遇し、九死に一生を得て岩手の郷土川崎村に帰りました。そこでより良い社会造りを目指す運動家となって、村議から県議、そして県の教育委員などを務めました。


 そのユートピア願望の求道心から岩手の寒冷地外山に50代で開拓に入り地域造りを指導し、さらに70歳の時に理想的な社会造りに貢献できる人間を育てるための教育を考え、「人類文化学園」という構想にまとめあげました。そしてそれを実現させる場所として南米を選んだのでした。

 それは、人類愛による平等社会と平和社会の実現と、人間として常に学び向上することのできる機会を与える学園社会の場を造ろうとするものでした。

 

 

 南米開拓  


 伊藤勇雄は、1968年に家族を引き連れて南米パラグアイに移住し、イグアス移住地内の国道から12キロ入った奥地に300ヘクタール弱のの土地を手に入れ、ジャングルを切り開いて、そこにあった原生林の木を製材し母屋や倉庫、畜舎などを建てた手作りの農場を築きました。

 

 そこに畑を作り、果樹を植え、牧草を植えて牛を飼い、豚を飼い、鶏を飼い、毎日、新鮮な牛乳を搾り、卵を集め、畑からは米、小麦、トウモロコシ、大豆、などの穀物とあらゆる野菜、果物などを収穫し、それらを加工して、豆腐、味噌、醤油、大豆食油まで自給し、買うものは塩くらいというほどの自給自足農場を作り上げました。

 

 

 

 一族4家族で4つの独立した農場が出来、合わせて1200ヘクタールの豊かな農村エリアを形成させましたが、中心となる勇雄の農場だけでも約300ヘクタールの土地内に120頭の肉牛、10数頭の乳牛のために約80Haの牧草地、蔬菜園2Haに果樹園1Ha、植林地4Ha、米や小麦、大豆などの穀物に60Ha、そして家畜の飼料のマンジョカやトウモロコシ用に40Haが耕作され、そして農場の従業員で扶養家族が多いものには土地(5~10Ha)を無料で使わせ畑を作らさせました。

農場のカーボーイや人扶は通常5~6人いて、忙しい開墾時期や作付け、収穫時期には20人以上いたりしました。

 

 回りの移住者はトラクターなどを借金して購入し機械化を図るなかで、勇雄は借金をせず、必要な労力は地元の人間を使い、開墾ペースを無理に上げることなく、自分が先頭に立ってこつこつと自給自足の農場を造っていきました。

 

 天気がよければ、明るい間は目いっぱい畑や家畜の世話をし、雨の日は倉庫で飼料を作ったり、脱穀などの室内作業をし、そして本を読み、音楽を聴き、釣りや狩にでて食料の自給もはかりました。

休みの日には勇雄は、開拓日誌を書いたり、日本の文化を紹介するために身に着けてきた「鬼剣舞」を練習していましが、傍らでは子供たちが、柔道や空手の鍛錬をしたり、拳銃やライフルの射撃練習をしたり、そして勇雄が集めた文学図書をむさぼっていました。

 

 

 ブラジルの弓場農場とは分かち合えるところが多く、招待を受けて交流を行い、子供たちが修行にいったり、あちらの若者たちが手伝いにきたりする姉妹農場的関係をもっていました。1975年に「弓場農場」のクリスマス祭に招かれていった先で伊藤勇雄は、前からの持病に倒れ、76歳の歳で生涯を閉じました。

 

 現在、彼の農場は自給自足はしていませんが、子供や孫たちが維持して学園構想計画への夢をあたためています。

 

 

 

伊藤家の理想郷作りにNHKが30年以上密着取材をしたドキュメンタリー

 

伊藤家の歩み(ショートVer)