30. 宮沢賢治のイーハトーブ ~ドリームランドとしての岩手県~
Ihatov (イーハトーブ) は「イワテ」をエスペラント語読みしてドイツ語をmixした宮沢賢治の造語で、賢治が目指した理想郷です。 人道主義と博愛精神に富んだ賢治は、人間はどこに住もうとも、日本のチベットと呼ばれる辺境の地であっても、愛と想像力をもって暮らせば、楽しい暮らしの智恵が湧き、都会では味わえない、自然を楽しむ暮らしと豊かな心のふれあいのある社会を創ることができるのだという夢と希望を与えてくれました。
宮沢賢治
宮沢賢治は日本で世代をこえてもっともよく読まれ、愛されている作家のひとりです。1896年に岩手県で生まれ、37歳の若さで亡くなりました。
賢治が生涯のほとんどを過ごした岩手県は、東京からは辺鄙な貧しい地方とみなされていました。賢治の生家は富裕な質屋であり、周囲の貧しい人たちから絞りとった利益によって恵まれた生活をしてきたのではないかという思いに彼は苦しめられました。そうした思いと仏教への信仰に駆られて、賢治は短い生涯の間、貧しい農村の生活を改善することに役立ちたいという情熱を持ち続けました。
賢治は地域の生活の向上に役立つために苦闘するとともに、他方で同時代(1910~20年代)のヨーロッパを中心に起きた科学や哲学、芸術の大きな地殻変動に対して強い関心をもち、貪欲に知識を吸収していました。そしてトルストイの人道主義と博愛主義などの影響を受け、自我を殺し、他人のために生きる人間像や理想郷などを作り上げたのです。 こうして急速に近代化しつつある日本の辺境扱いされた場所から、ローカルな地域に深く根をおろしながら、同時に世界中の人々の心に訴える普遍性をもつ賢治の作品群が生み出されました。
農業を専攻し、農民の子供たちを教育する中で農人の窮乏を知った賢治は、これに屈することはなく、農人と苦労を共にして住みよい国土にしようと努力しました。その署の中に「イーハトーブ」という言葉が時々出てきます。天恵少ない岩手への愛称で次のように説明されています。
「イーハトーブは一つの地名である。強いて,その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕してゐた、野原や少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の人、テパーンタール砂漠の遥かかなた北東、イヴァン王国の遠い東と考へられる。」 ~宮沢賢治
実にこれは著者の心象中に、このような情景を以って実在したドリームランドとしての日本岩手県です。
そこでは、あらゆることが可能です。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従いて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語る事も出来る。罪やかなしみでさへそこでは聖くきれいに輝いています。
現在岩手県では、宮沢賢治のイーハトーブ思想を生かした郷土造りや町興しなどが盛んです。しかし実際、宮沢賢治が目指したユートピアとはどんなものだったのでしょうか。
賢治は自分の理想郷をイワン王国にたとえました。 これはトルストイの「イワンの馬鹿」からきています。皆から馬鹿と言われていたイワンが、さまざまな悪魔の仕掛ける難関を、彼独自の方法や価値観で解決してゆきます。そして王となった後も、以前と変わらず勤勉で、民と共に平和な国を築いて行きます。
その国はみな平等で助け合い、自給自足、完全自決型社会で、貨幣経済を必要としません。ここには神への敬虔な信仰心はあっても、特定の宗教は存在しませんし、王は富や権力の象徴ではありません。賢治は、イワンのように、誰でもが無私無欲、働いて自分の糧を得、誰をも受け入れ、争わず、全体や未来の平和、幸を考え行動する魂さえあれば、理想郷は世界のどこでも可能であると示唆しました。
- 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
- 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
- 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシズカニワラツテイル
- 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
- アラユルコトヲ ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
- ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
- 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
- 東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
- 西ニツカレタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負イ
- 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコワガラナクテモイイトイイ
- 北ニケンカヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
- ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
- ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
- ソウイウモノニ ワタシハナリタイ
宮沢賢治は、岩手で伝統的な環境に育ち、外国へは出ることはありませんでしたが、彼の作品には国境がありません。日本と外国の文化が混ざり、宇宙さえも舞台になり、主人公には動物たちも現れる世界が描かれています。仏教とキリスト教の信心や思想がこだわりなく反映されています。。
特にトルストイの博愛主義は自分を忘れ他人のために人生をささげるという究極的な生き方ですが、これはそのまま、賢治の「雨にも負けず」の詩に反映されています。
また、「イワンのばか」に見られるトルストイの理想的人間像が、賢治の「でくのぼう」と呼ぶ人間像にも反映されており、「他人への奉仕に生きる純粋な博愛心」が人道主義の人間像ではないのでしょうか。 そして、このような純粋な他人を思いやることのできる人間たちがいっぱいの地域こそ、本当のユートピアになるのかもしれません。