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ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

32. 南米のユートピア? インカ帝国 集団を超えた採取社会か、理想的な共同体か



 南米ペルーにある世界文化遺産の一つで謎が多い有名な遺跡「空中都市マチュピチュ」は1200年から1532年頃の間に繁栄したと言われるインカ帝国の秘密基地だったと言われています。首都クスコがスペイン人に侵攻され、そしてペルー全土がスペイン人に占領されてしまっても険しい山の頂に作られたこの町だけは、ふもとからは見えないためスペイン人も発見できず、1911年にアメリカ人研究者ハイラム・ビンガムが発見するまでの400年間、アンデスの山々の中に眠っていた秘密の要塞だったのです。

 さて、またクスコには、侵攻してきたスペイン人を驚愕させた膨大な金がありました。当時町の中央には、石組みの建物のほとんどの面が金箔で覆われた、まばゆいばかりに輝く「太陽の神殿」があり、神殿の中にも実物大のリャマの金像など莫大な量の金があったということですが、スペイン人がインカ皇帝アタワルパを捕らえ身代金を要求したため、インカは国中から金の宝物を集め、「部屋いっぱいの」金をスペイン人に支払いました。それらは全て溶かされて延べ棒にされヨーロッパに運ばれたのですが、その量の多さは当時ヨーロッパで金の暴落が起きたほど膨大であったということです。

 これらのインカにまつわる黄金卿伝説は有名ですが、この黄金卿を作り上げることができた要因には、インカ帝国は武力支配国家ですが、全て国有(=皇帝所有)で最高級の貴族さえ私有権は認められていない、私権社会以前の段階にあったということが一つ、そして農民は、前インカ時代からのアイユウという祖先を同じくする母系的な氏族集団に属したままで、土地は集団の共有、結婚も氏族内で行われていたほどで、原始共同体をそのまま維持していたという興味深いものがあります。

 これらの興味深い点や謎についてはいろいろな意見や見解があるので、参考までに集めて見ました。


インカ帝国は集団を超えた採取社会だった?1

本田真吾 47 香川 建築家


 世界中に巨大建造物遺跡が残っていることを考えると、掠奪闘争⇒武力支配国家以前に、集団を超えた採取社会が世界中の至る所に存在していたと考えて間違いありません。このような採取社会はどのようにしてできたのでしょうか?(63045) 

 武力支配国家以前の集団を超えた採取社会の構造は、共認社会に向かう今後の社会構造を考える上で、大きな可能性を持っていると思う。しかし現在、極めて辺鄙な地域で、小集団レベルに留まった部族以外には、武力支配を免れた社会は見当たらない。 

 しかし、略奪闘争を比較的新しく経験した地域には、古代遺跡に比べればはるかに確実な情報が得られる。16世紀ごろスペイン人に侵略され、共同体社会をズタズタに引き裂かれる前のインカ帝国は集団を超えた採取社会ではないかと考えている。

 高地に適応した農業技術、見事な石加工の技術に支えられた神殿、今のペルー一帯を走るインカ道(高地は石で舗装されていた。)、その各所に設置された、インカ王が管理する宿場町と飛脚のような情報網、精緻な彫刻.織物.レリーフなど、数えあげればきりがない。これほど、完成度の高い文化が私権時代以前に存在していたのである。 

 しかし、このような物理的なデータだけならば、他の古代遺跡も数多く存在する。だが、何千年も前となると、それを生み出した社会はどうなっていたのか?という疑問に応えられるデータは極めて少ない。 

 そこで、インカ帝国にまつわる歴史を見てみると、400年ほど前、侵略者スペイン人の身勝手な歴史として伝えられることが多いが、侵略のためにインディオの生活や組織を丹念に研究した記録も残っている。その記録から当時の社会を垣間見ることが出来る。

 その中でもとりわけ興味深いのは、王(統合者)による財の集約と、贈与に近い再配分システムである。スペイン人の記録によれば『税』という表現をしているが、私権時代の強者が弱者を搾取する税制とは大きく異なると思われる。 



 まず、インカでは貨幣経済は存在していなかった。しかしながら、物流は組織的に管理されて存在していた。王を頂点とした、収穫物や、織物の集約(徴収とは少し異なる)と、その再配分システムである。一部の女性もその対象になった。

 土地は各共同体の共有であり、カシーケという共同体の統合者が土地の割り当てを担っていた。カシーケは各家族の実態人数に応じて、毎年土地を再配分していた。インカの時代に、この土地は、一番大きな共同体所有と太陽の祭祀、国家の為の3つに分けられた。その他にリャマ織物と道路や灌漑用水路の建設などの賦役があった。また、労働は善という意識であり、農民は真面目によく働いた。 

 これらのうち、食糧などの農業生産物は、基本的に王の管理する地域倉庫に蓄えられ(実態は地方長官クラカの管理か?)、殆どは現地で消費された。だから、農民は納めた生産物は自分自身で消費しているという意識があった。飢饉などの際は、王が管理する倉庫から、食料が配分され、病気や老齢の農民はも配分を受けた。

 この中で、リャマ織物は特別な意味をもつ。材料であるリャマの毛は王から与えられ、それを加工してまた王に返すというシステムのようだ。この織物にもランクがあり、普段着に使うものと、王や統合者が身に着けたり、飾ったりするものである。これには、特別な信仰的意味もあり、インカの人々にとっては極めて重要なものだった。これを、地方首長に贈ることで、彼との主従関係を築いた。

 また、インカに仕える女として、共同体の中から美しい女性が選ばれた。彼女達は共同体を離れ、世間から隔絶した屋敷で織物を織る。そして王の許可なくして結婚も異性関係ももてない。ただ、地方の有力者は複数の妻帯が可能で、そのうち一人を王から与えられ、正妻とするという記述から、これも集団統合のためのシステムではないかと思う。

 このような、希少財の集約と贈与的再配分と、食糧の安定的供給の為の再配分システムにより、集団を超えた社会を統合していたのではないかと思う。


インカ帝国は私権社会以前の武力支配国家

岡本誠 50兵庫 経営管理 


 インカ帝国(1200~1532年)は、武力支配によって統合されていた点を見逃してはならないと思います。広大な帝国(最大時で面積100万平方キロメートル、南北の距離は4000㎞に及んだ)の各地から財を集約し再配分するには、武力支配を背景にして始めて可能になります。それに採取生産の段階を超え出て既に農耕社会に移行していたとみていいと思います。 

インカ帝国の成立は1200年頃と推定されていますが、8代皇帝までの約200年間は帝国というより部族とよんだ方がふさわしく、クスコを中心に数十㎞以内の諸部族と戦闘を交えていたに過ぎなかった。ところが長年の仇敵チャンカ族を倒すと急速に征服を開始し、9代と10代の皇帝に至ると30年ほどの間にアンデス地帯の大部分を占領し、11代で100万平方キロメートルの大帝国を打ち立てます。 

63538に記されていたペルー一帯を走るインカ道(海岸道路と高原道路の二つある)と宿場の整備は、何よりも軍事的要請に基づくもので、迅速な情報の取得と命令の伝達ならびに兵站物資の輸送のためであり、人民は使用できませんでした。 

征服後の統制経済は驚異に値し、生産手段の全面的な国有化、共同作業による生産従事、綿密な計画経済と人民の生活保障から、「社会主義的帝国」とよばれるくらいだった。征服するとまず人口を中心に、地理的景観、村落の位置、耕作適地、灌漑などの調査が行われ、粘土の上に詳細に描かれる。人々は年齢階層に従って結縄(キープ)に登録され、粘土と結縄の資料はクスコに送られ、皇帝とその側近が注意深く占領方針(首都の位置や公共建築物の計画、住民の移住計画など)を立てるというものだった。文字はなかったが、数字を記録する結縄(キープ、インカの発明したもので既に零も知っていた)が、科学的な統制経済を可能にした。

政治的支配だけではなく宗教的支配も同時に行い(太陽の信仰に服従させる)、そして混血が始まり、インカ帝国公用語であるケチゥア語がそれぞれの部族の方言に取って代わった。このように、それまでの小さな部族が分立してそれぞれの方言や宗教をもち、互いに対立し合って絶え間ない戦いの連続であったアンデス地帯一帯を、統制された同質の文化へと変えていった。

人民の大部分を占める農民は、前インカ時代からのアイユウという祖先を同じくする母系的な氏族集団に属したままで、土地は集団の共有、結婚もアイユウ内で行われていたほどで(内婚制)、原始共同体をそのまま維持しています。結婚は、男がある女に好意をいだくと、女の家をしばしば訪れ家族の労働に参加する、そのうち婚姻以前の性関係が結ばれるという、妻問婚のようなものと想定されます。また、皇帝はしばしば実の姉妹と結婚し、貴族も従兄弟姉妹の間の結婚は許されていたようです。 

インカ帝国は武力支配国家ですが、全て国有(=皇帝所有)で最高級の貴族さえ私有権は認められていない、私権社会以前の段階にあります。新大陸で独自にこのような社会へ移行してきたのはなんでだろう?と、興味が湧くところです。

(参考文献:泉靖一著『インカ帝国』)