ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

44. 共働学舎 ~生産的勤労生活共同体 ~障害者との共存共栄~

 共働学舎は、キリスト教精神に基づき身体障害者から知的障害者まで平等に生産的勤労生活の場を提供する共同体です。長野や北海道にまで展開する農業中心の農事組合法人のグループと、東京を中心にトイレットペーパー生産やリサイクル事業に従事する社会福祉法人のグループがあるようです。このサイトでは情報が整理しやすかった農業中心の共働学舎を例としてまとめてみます。

 農事組合のグループは、農村の自然の中で、農業と工芸を主体とする生産的勤労生活を目指し、誰もが、自分自身で生きる可能性を学びとり、体全体で生きる喜びも厳しさも体験するためには、強弱様々な生命の見事な共同体として、豊かな自然の中で生活することが一番よいと考えます。 


 共働学舎とはなにか-その願い-


○競争社会ではなく協力社会を 

 競争がなくては進歩はないと考える傾向が強くあります。そして競争社会は当然勝者優先となり、勝者がすぐれた人であり、勝てない人は駄目な人、役に立たない人と思われ、知らず識らずのうちに差別と不公平の意識が生じます。
    これは何でも点数で評価して順位をつけなくては決着がつかなくなっている学校教育にも大き な原因があると思います。   
 教育基本法に人格、人権の平等が唱えられていても、ものわかりの悪い子供、要領も能率も 悪い子供、勝負に弱い子供、規格に合わない子供、肉体的精神的に先天的疾患あるいは弱点を 持っている子供は、どうしても重んぜられないのが普通になっています。

 その上、家庭を失ったり、親が子供を育む力が十分ない場合は、尚更のこと子供の困惑と 不安は増大し、登校拒否や非行にはしるようになることは容易にうなづけます。

 まして体が不自由であったり、智恵おくれなどと言われて、本来弱者の立場を余儀なくされて いる人達が、競争のできる人達よりも大切にされるということは、教育の世界にすらありません。 彼らははじめから特殊児童として、同情はされても程度の低い人問として扱われるのが現状です。

 共働学舎は今の社会通念となっている点数によって評価される価値観ではなく、人間一人一人 に必ず与えられていると信ずる固有の命の価値を重んじ、互いに協力することによって、個ではできない更に価値のある社会を造ろうと願うものです。

○手作りの生活を 

 共働学舎は勤労生活を重んじます。生きる為にはどんな人でも食物と住居と衣服が必要です。 これらを自らの力で作り出すことの喜びを味わうことが、生活の豊かさの大切な要素ではないかと考えます。その苦労が人間性を高く深く成長させると信じます。
 苦労はあっても、生きるものすべての本来の望みである生活の自由がそこにあります。創意と工夫がもたらしてくれる自主独立の手造りの生活が生じます。 それぞれに与えられている個性と能力が生かされる舞台があります。

 共働学舎は近代文明の象徴である科学技術、機械力を否定するものではありませんが、それによって人間性を乏しくするような用い方は厳しく慎みます。 
 そして、人間の造り出す物と人間自身の力の限界を深く知って天地の創り主を仰ぎます。 この生産的勤労生活の中で神を愛し、人を愛し、自然を愛し、生けるものすべての生命を愛して 生きたいと願います。

○福祉事業への願い 

 社全の中でもっと自然な状態で、それぞれの価性と能力に応じてこれを生かす道がなければならないと思います。 人間の価値を人間が測定できる側面のみで決めずに、それぞれ不完全ではあっても、弱くはあっても、与えられている力を積極的に生かし、互いに協力して喜んで自分達自身の力で生きる社会をつくることは、難しくはあっても出来ない筈はありません。 
 それが生き甲斐ある生活となり、人間性を高めてゆくことになるならば誰にとっても意味のある生き方であることに違いありません。 
 福祉社会という言葉は盛んに語られ、実体なき福祉運動は多くあっても、人々の心の中にも社会体制の中にも、実際は差別がひどくあるのが日本です。
 肉体的、精神的、能力的、或いは境遇上の様々の差異はあっても、一人一人の生命力を出来る限り素直に伸ばせる新しい社会をつくりたいのです。そういう志をもった若者達や少年少女達の協力社会を、自らの手でつくりたいのです。それができるならば、この国の将来への一つの救いとなるのではないかと考えるからです。

○真の平和社会を求めて 

 私達は、競争社会よリも愛による協力社会の方が、個人としても社会としても豊かになり得る事を信じます。
 そして、人格と人権とが神の前にすべて平等であることを信ずる時に、はじめてそれが可能と なることを、日常の生活の中にまず実証しなくてはなりません。人間はすべて神の作品であると信じます。
 神の作品には失敗作はありません。 一つとして拾てられてよい不良作品は無いはずです。 創り主は自らの作品を愛します。 その一つ一つに完全者の性質が分け与えられていると信ずるならば、どうしてこれを互いに傷つけ、或いは無視することが出来るでしょうか。互いにこれを尊び喜び、その組合わせをよくする為に熱心に工夫し努力することが、よい社会(神の完全性に近づく)を造る原動力になると信じます。

  共働学舎は、この願いと祈りをもって始められた、独立自活を目指す教育社会、福祉集団、農業家族です。


人工によらぬ天地自然のいのちに直接触れる業 

 共働学舎で農業を重んずるのは、自活に必要な手段であることには違いありませんが、それよりも、人工によらぬ天地自然のいのちに直接触れる業であるからです。一歩誤れば自然を大きく破壊する危険性を常に持つ農業ではありますが、植物、様々な生物、動物、人間が、それぞれあるべき最もよい姿で生き統けられる生き方を求め、学び、励む農業であるように願っています。 

 共働学舎は、自分達だけの小社会をうまく運営してゆけばよいとは考えていません。 周囲の地域社会から孤立しないばかりか、若い労力の少なくなった農村にあって、積極的にさまざまの仕事に参加し、協力することによって、一般生活にも経済生活にも、互いに利益を共有する連帯関係をもつものとなりつつあります。




 共働学舎は誰がつくるのか


 良心的に生きるのに学歴は要りません。良い仕事をするのに資格は要りません。人を愛するのに、知識も経験も要りません。
    心身共に健全なやる気のある若い人々が、共働学舎の願う新しい社会づくりに加わってくれる ことを、熱心に希望しています。

 年令には特別の規定はありませんが、農業労働が多いために、これに適した年令が希望されます。義務教育の年限内の場合は、基本的には親が責任を持つべきだと考えますが、止むを得ぬときは、共働学舎から学校に通うことが出来ます。

 共働学舎は、個性、能力などそれぞれ異なる人々が、障害の多少にかかわらず(障害が全く無い人間は居ない筈)共に生きてゆける差別なき社会をつくり、次第に、逆に社会に浸透してゆこうとしています。


   メンバーの数については、宿舎を自分連で建てる関係上、制限がありますが、一ケ所に二十名が限度と考えています。
   心の連なりが薄くならない為です。 成長してグルーブが組めるようになれば、峰の分封のように新たな場所に生きる舞台をつくることは可能だと思っています。 志さえあれば、現在の日本の中には、我々が生きる場所はまだまだ沢山あることは確かです。
  
 共働学舎には職階制による組織はありません。したがって指導員、保母、栄養士、調理師、事務職、という肩書を持って働く人はいません。 又、農業、建築、工芸にも、これまでは専門家はおりません。
 必要に応じ、メンバーの個性と能力に応じてみんなで責任を分かち合い、間題にぶつかっては 学んでゆきます。それと同時に、専門家を先生として勉強するために沢山の方の協力も頂いています。