ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

31. イギリス最初の社会主義思想家ロバート・オーウェンの生涯

 オーウェンが,ウェールズニュータウンという町に生まれたのは,1771年であった。18世紀なかばごろから紡績業を中心に始まった産業革命が次第にそのスピードを速めながら,イギリス全土に広がりつつあった時期である。馬具や金物を扱う商人の家庭であった。

 

 オーウェンが両親と一緒に暮らしたのはわずか10年である。10歳のときに,みずからの意志で(!)ロンドンに出て徒弟修業にはいる。

 

最初に勤めたのはスタンフォードのジェイムズ・マクガフォッグの店であった。高級生地を扱う店で,顧客は上流階級の人々である。マクガフォッグは,正直な商人として彼らの信用を得ていた。

この店でオーウェンは上流階級の人々との接し方を学んだという。

 

彼は自叙伝に次のような思い出を挿入している。

 ある日,大金持ちの未亡人が,高級織物を買いに来た。主人のマクガフォッグは,そのときたまたま店に置いてあった最高級の織物を未亡人に差し出した。必要以上の利益を得ず,どんな客にも掛値(かけね)なしで売ることを信条としていたマクガフォッグは,その値段が1ヤール(織物の単位)8シリングであると正直に告げた。

すると未亡人は,「もっと上等なものが欲しいわ」と言う。もちろんこれ以上の織物は世界中どこを探してもない。しかしマクガフォッグは,上流階級の人々の性格を熟知していた。

彼は「それでは」と言って倉に行き,同じ織物を持って戻ってきた。「ございました。ただお値段は10シリングになります」と言って未亡人に差し出しすと,未亡人はそれを手にとって調べ,「これこそ私が求めていたものです」と答えた。マクガフォッグは勘定書に値段を書き入れ,未亡人に手渡した。その勘定書には,1ヤール8シリングと記してあった。

 マクガフォッグは,相手の無知や無経験に乗じて利益を得るような商人ではなかった,という逸話である。まるで,短編小説か童話にでもなりそうな話だが,利益最優先の資本主義における拝金主義は,このような商人の良心(人間の良心と言ったほうがよいか)を駆逐してしまった,とオーウェンは言いたかったのかもしれない。



 このマクガフォッグの店で3年間修業したあと,オーウェンはフリント・パーマー商会に就職する。

14歳であった。この店はマクガフォッグの店とは正反対に,下層階級の人々を顧客としていた。朝から晩まで働き,睡眠時間はわずか5時間という過酷な労働の中で,今度は下層階級の生活を知ることになる。


 次に移ったマンチェスターのサタフィールドの店で,オーウェンはある若い職人と出会い,ふたりで工場を設立して経営者への道を歩み始める。この工場は長くは続かなかったものの,その後ドリンクウォーター紡績工場支配人等を経て,1996年にコールトン撚糸(ねんし:よりあわせた糸)会社を設立,このころにはすでに有能な経営者としてその名をはせていたという。

99年にアン=カロライン=デイルという名の女性と結婚,彼女の父からスコットランドのニューラナーク工場を買い取り,支配人となる。これがオーウェンの名を歴史に刻むことになった工場である。


 何度も繰り返すようだが,当時イギリスは産業革命がリアルタイムで進行していた。

 

農地を失った貧しい農民や工場の出現で職を失った職人たちの多くは,炭坑で働くか都会に出て工場労働者となった。しかし,坑夫や工場労働者には技術はさほど必要ではない。

 

結果的に,賃金の安い女性や子どもたちがそれらの労働を主に担うようになっていった。その労働は技術は必要とはしないものの,劣悪な環境のもとで単調な仕事を長時間続けることを強いられるという,従来の労働とは異なった過酷さをもつものであった。

 

一方で,成人男性は失業状態となる。こうして,労働者街はしだいにスラム化していき,犯罪も増加した。マルクスエンゲルスが後に指摘したとおり,資本主義は,その誕生のときからすでにさまざまな矛盾や問題点を内包していたのである。

 それらの矛盾や問題点を,オーウェンニューラナーク工場で解決しようと試みた。  

 

彼は,諸悪の根元は労働環境の悪さにある,人間の性格を形作るのは環境であるから,環境を整えない限り問題解決ははかれない,と考えた。

 

そのために,労働者が住む住宅を用意し,生活に必要な品物をまとめて仕入れて原価で販売するシステムを作り,生活全般の面倒をみることのできる環境を作ろうと考え,それを実行した。

 

なかでも,もっとも重要視したのは教育で,とりわけ幼児教育に力を注いだ(オーウェン幼稚園の父ともよばれる)。


 もはや工場を中心とするひとつの町づくりであった。ニューラナークは,社会改良のメッカとして世界中から注目された。

 

一方で,労働者たちは意欲的に働くようになり,結果的に効率が上がって工場経営的にも大成功をおさめる。これらの経験に基づき,1913年から14年にかけて,オーウェンは主著『社会にかんする新見解』(『新社会観』ともいう)を出版する。これによって,彼の理論は「性格形成論」として広く知れわたることになった。このニューラナークの成功は,のちのニューハーモニーの実験へと発展していく。


 さて,この時点でオーウェンは40代前半である。彼の人生は87年であるから,まだその半分を語ったに過ぎない。

 

これだけでも「波瀾万丈(昔の日本のテレビ番組)」に3回ぐらい出演できそうなほど十分波乱に富んだ人生であるが,こののちも前半生に劣らず波乱の人生が続く。詳細に触れる余裕はないので,概略だけをたどってみる。

 1815年 工場労働時間規制法の提唱(33年の「工場法」の原案となる)
  17年 協同コミュニティ構想を提唱
  25年 アメリカで理想社会ニューハーモニー=コミュニティの建設を開始
  28年 全財産をつぎ込んだニューハーモニー計画が失敗に終わる
  29年 イギリスで協同知識普及協会創立
  31年 妻カロライン死去
  32年 雑誌「クライシス」発刊。労働公正交換所開設
  34年 全国労働組合大連合結成
  35年 万国全階級協会創立

 このように,オーウェンの後半生は,ひたすら理想社会の実現と労働者の生活・権利向上のために捧げられた。

 

それは,右肩上がりの前半生とは違って,苦心して資金を集めては新しいコミュニティ建設に乗り出すものの,そのことごとくが短期間で失敗する,という繰り返しでもあったが,とにかく,そのすさまじい執念と行動力にはただただ脱帽するばかりである。  

 

こうして社会変革の先頭を走り続けたオーウェンも,30年代後半あたりから次第にその影響力を失っていき,過去の人となっていく。

 

それでもオーウェンは,生涯,社会変革への意欲を失うことはなかったという。晩年には心霊の世界にのめり込んでいたというオーウェンがこの世を去ったのは,1858年,87歳であった。