ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

32.  ロバート・オーウェン: 工場経営者から「共産主義へ前進」

●多面的なその活動

 労働者のための様々な構想を発案し、かつ実践した人としてロバート・オーウェン(1771~1858年)の右に並ぶ人は少ないだろう。「協同組合、労働組合、労働交換所、工場厚生福利施設、工場立法、世界最初の幼稚園、労働者新教育、性格形成論、環境社会学、新結婚観、既成宗教の否定、都市と農村の結合、協同社会、夏時間、グリーン・ベルト等々――、今なお世界的関心をひくこれらのアイディアはみなオウエンの泉に回帰する」とオーウェン研究家で『オーウェン自叙伝』(岩波文庫)の訳者、五島茂氏が指摘するとおりである。

 

●工場経営者として

 7歳で小学校を卒業すると同時に、成績優秀を買われてその学校の助手兼教師となったオーウェンであったが、早くも10歳の時にロンドンに出て繊維関係の様々な商店に奉公する。この時に厳しい労働体験を通じて商品知識や簿記・在庫管理、経営管理を学んだことが後の工場経営者としての手腕やニュー・ラナークの実験に活かされる。

 

 オーウェンは当時発明されたばかりのミュール紡績機を購入して小企業を開業した後、マンチェスターに最新の紡績工場を擁する業界の大物、P・ドリンクウォーターに支配人として採用される。オーウェンは、青年男女労働者に子供も加え5百人ほどが働く新鋭工場を管理し、工程や機械の改良に没頭して目覚ましい業績を挙げる。さらに、この時期、彼はマンチェスターの知識人たちと交流し、旺盛な知識欲と向上心から自らの思想を形成していく。

 オーウェンはその後、ドリンクウォーターと袂を分かち、紡績会社を設立してその支配人になるが、グラスゴーで知り合った女性と結婚し、スコットランドの木綿王と言われた彼女の父の工場を買い取って「ニュー・ラナーク紡績会社」を設立、その総支配人となる。

 

ニュー・ラナークの実験

 オーウェンが紡績工場経営者として出発した1780年代、90年代のイギリスでは、産業革命が疾風怒濤の勢いで進行していた。蒸気機関や新しい機械が次々に登場し、工場制手工業を近代的大工業に変え、ブルジョア社会を根底から変革しつつあった。大資本家とプロレタリアートへの社会の分裂が恐るべき勢いで進行し、かつての「中流階級」は急速に没落し不安定な生活を強いられた。都市には農村から流入した貧民たちが溢れ、家族制度など伝統的紐帯は弛み、犯罪が横行し、労働者大衆の堕落が深刻になっていた。

 

 エンゲルスはこうした時代に登場したオーウェンについて次のように書いている。

 

 「この時、29歳の一工場主が改革者としてあらわれた。彼は崇高なまでに子供らしくて素朴な性格の持ち主であり、同時に、稀にみる天性の人間指導者であった。彼ロバート・オーウェンは人間の性質は一方ではもって生まれた体質の産物であり、他方ではその生涯、特に発育期の個人の環境の産物であるという、唯物論に立つ啓蒙主義者の学説を信奉していた。彼と同じ階層の人々にとっては、産業革命とは混乱に乗じて漁夫の利を占め、一挙に成金になるに適した混乱と混沌に過ぎぬものであったのに、彼にとっては、それは、彼のモットーとするところのものを社会に提起して、混沌の中に秩序をつくりだすべき機会であった」(『空想より科学へ』)

 

 ニュー・ラナークでの実験については、オーウェン自身が自らの「性格形成論」を展開した文献、『社会に関する新見解』(1813~14年公刊)で詳しく論じている(ニュー・ラナークでの実践は彼にとって人間は環境の産物であり、したがって環境を変えることによって人間を変えることができるという理論を実証する活動でもあった)が、ここではエンゲルスの巧みな要約を紹介しよう。

 「彼(=オーウェン)は、後にはしだいに増加して2千5百人になったが、はじめは種々雑多な著しく堕落した分子からなっていた住民を、完全な模範コロニーにつくりかえた。そこでは泥酔、警察沙汰、裁判沙汰、訴訟沙汰、救貧、慈善の必要が全くなくなった。そしてそうなったのは、ただ彼が人間を人間らしい状態におき、特に青少年を注意深く教育したというだけのためであった。彼は幼稚園の発案者であって、はじめてそれをこの地に開設した。児童は二歳になると幼稚園に入れられたが、幼稚園があまり楽しいところであったので、子供たちは家にかえるのをいやがった、ということであった。彼の競争者が毎日13時間―14時間もその職工を働かせているのに、ニュー・ラナークでは十時間半しか働かなかった。棉花恐慌のために4カ月間の休業をよぎなくされた時でも、休業労働者に対して賃金全額が払われた。それでいてこの会社は価値を倍以上に増加し、所有者には最後までゆたかな利益が配当された」(同)

 

●「共産主義に前進」

 ニュー・ラナークの実験により、オーウェンは一躍博愛家、慈善家としてブルジョア社会でもてはやされるようになり、ニュー・ラナークはやがて「社会改良者のメッカ」と言われるようになった。

 

 しかし、彼はこの成功だけでは満足しなかった。ニュー・ラナークでできたことは社会全体でできるはずだし、また社会全体で採用しない限り、本当の意義は明らかにならないと考えたのである。

 

 「オーウェンにとっては、この〔産業革命が生み出した――引用者〕新しい巨大な生産力は、社会改造の基礎となすべきものであって、それは当然万人の共有財産として、万人の協同福利のためにのみ使用さるべきものであった。

 

 オーウェン共産主義とは、こうした純然たる事務的方法のもので、いわば商人的打算の結果であった」(エンゲルス、同)

 

 オーウェン共産主義プランは、1820年のイギリス全土を襲った恐慌後、徐々に具体的な形を取るが、それがある程度まとまった形を取ったのは、ニュー・ラナーク州庁に依頼されて失業の原因を分析し報告した文書、『ラナーク州への報告』(1821年公刊)だとされている。

 

 五島茂氏によれば、その内容は次のようなものである。「リカードゥの経済理論、とくに労働価値説を素朴ではあるが階級的にとり入れ」、「貨幣はあらゆる害悪の根」と論難し、「人間労働本位制労働紙幣を主張し、十数年後の全国衡平労働交換所開設への発展の根底をつくった」。また新しい農業技術を取り入れ、「農工連帯の協同体建設を主張」した(中央公論社『世界の名著42』解説から)。

 

 オーウェンはこうしたプランを抱いて1824年にアメリカに渡り、「ニュー・ハーモニー協同体」の建設に乗り出すが、意見の対立や金銭上のトラブルから28年には退村を余儀なくされ、イギリスに戻る。

 

 彼がアメリカ滞在中の1826年7月4日、アメリカ建国五十年記念の日におこなった演説、「精神的独立宣言」はこの頃の彼の思想的到達点を示していて興味深い。彼はその中で、「悪の三位一体」として「私有財産、矛盾と不合理な宗教、それらいずれか一つとした結合した不合理な結婚制度」を挙げ、それらの「奴隷」として生きてきた人類の解放を謳った。

 

 エンゲルスオーウェンにとってのこの“共産党宣言”によって彼の生涯は激変したと書いている。

 「共産主義への前進によってオーウェンの生涯は転換した。彼がただの博愛家としてふるまっていた間は、彼の得たものは富と称賛と栄誉と名声であった。ただ彼と同じ身分の人たちばかりでなく、政治家にも王侯にも彼のいうところを傾聴したものがあった。

 

だが、共産主義理論をひっさげて出現すると、形勢はたちまち一変した。なかんずく彼の社会改良の道を塞ぐように思われた大きい障碍が三つあった、私有財産、宗教、現在の結婚形式、その三つであった。

 

これらのものを攻撃するならば、どんな目にあわされるか、それを知らされた。それはいうまでもなく、公的社会による一般的追放、全社会的地位の喪失であった。けれども彼は断乎としてこれらのものを攻撃することをやめなかった。結果は予期していたとおりであった。すなわち、彼は公の社会からは追放され、新聞からは黙殺され、全財産を投げ出してやったアメリカにおける共産主義的実験の失敗のために零落した」(同)

 

 しかし、エンゲルスはまた、オーウェンはいささかもひるむことなく、「まっしぐらに労働者階級の方に身を寄せ、その後なお30年、彼らのうちで活動を続けた。イギリスで労働者の利益のために行われた一切の社会運動、一切の現実の進歩はすべてオーウェンの名前に結びついている」として彼の活動を称えている。

 

 エンゲルスオーウェンの功績として挙げているのは、「工場における婦人及び児童労働の制限に関する最初の法律を実現した」こと(1819年)、イギリス最初の単一労働組合連合体を組織しその第一回大会議長となったこと(1833年)、「協同組合(消費組合及び生産組合)を始め」て、「商人も工場主もかならずしもいなくてもいい人物であるという証拠」を作ったこと、「労働バザー、すなわち労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する施設をつくった」こと等々である。

 

最後の点についていえば、この施設は「後のプルードンの交換銀行の完全な先駆」となったが、プルードンと違ってオーウェンにあっては「これは一切の社会的害悪の万能薬ではなく、単に一層根本的な社会改造へのほんの第一歩にすぎないものと考えられていた」。

 

 

●社会改良家としてのオーウェン

 

 しかし、我々はオーウェンが「共産主義へ前進した」としても決して革命家にはならなかったことも確認しておくべきであろう。彼の立場は、アメリカで行った例の「精神的独立宣言」に端的に現れている。この時の演説内容は、後1839年4月に雑誌『新道徳世界』に「結婚・宗教・私有財産」と題して掲載されたが、そこで彼は次のように述べている。

 

 「達成されなければならない仕事は、平和裡に、すべての人びとの益になるように、神秘的な宗教――自然の諸法に逆らう人為的な法律――私有財産――愛情なき結婚――売淫――貧困――または貧困の恐怖――および暴力と不正な手段による統治――などを根絶することであります。そして、これらの諸変革は、宗教的または精神的な自由の制限、あるいは暴力による政府の変革なしに行われなければなりません」(訳文は前掲『名著』より)

 

 ここにはオーウェンの思想的到達点と限界が明確に現れている。彼にとって、宗教が他のあらゆる宗派に対する排他的態度によって人間同士の対立をあおり、あらゆる「非合理的な行為の原因」となっていることは明らかだった。

 

 私有財産も排除すべき悪しき遺産の一つである。それは「貧困の原因」であり、「きわめて少数の人々による、人類の大多数の人々に対する最も悲惨な圧迫の原因」であり、「戦争と殺人の原因」であり、「人々の間に愛といつくしみをもたらすことへの強い阻害要因」であり、「最も重大な利益を失うような社会状態にすべての人が服することを強要する手段」であった。

 

 また、不自然で半野蛮で「人為的でしかも解消不可能な結婚」は「多数の人々を少数者の特権と優位性のもとに、無知と服従の状態のもとにおくものであり、圧制者たちの横暴をほしいままにさせるものであり」、「私有財産制――この制度が支持されている間は、人と人との心を割かずにはおかないし、世界のすべての国々の統治権力者が頭脳と精神を邪悪にし、横暴にする――をつくり、かつそれを奨励するものであり、男と女をきわめて複雑な欺瞞の体系におしこむことになる」。

 

 そして、オーウェンはすべて正当なこれらの論拠の上に「実行しうる限り早く、すべての私有財産を廃止しなさい。そうすれば、あなた方は……合理的な結婚を採用することができます」と説く。

 

 ところが、彼がこのように主張するのは、実は革命を避けるためなのである。

 彼は言う、「このような状態は長続きしません。

 

――賢明で先見の明のある道徳的な変革か、あるいは、はてしのない、予知することができない罪悪をともなった、愚かで不消化な物理的な力による革命が、まもなくおこるでありましょう。そして、後者が、大多数の人々の状態を悪化させることがあっても、きわめて短期間は別として、実現することはほとんどないものと思われます」。

 

 オーウェン共産主義に接近しながら、あくまでも社会改良家の域を出なかった所以である。

革命は暴力であり破壊であり、「大多数の人々の状態を悪化させる」が故にどうしても避けなければならない――このような牢固とした観念を生涯払拭できなかったオーウェンは、労働者の友として資本主義のもとで可能なありとあらゆる有益な活動を展開しながら、結局は改良主義者にとどまった。そして彼の後継者たちは、協同組合運動を絶対化するなどして、客観的には労働者の闘いを資本主義のもとでの改良運動に押し込める役割を果たすことになったのである。