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ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

31. 宮崎駿のユートピア文学  現代日本の最高水準のユートピア文学「風の谷のナウシカ」

 宮崎駿のマンガ作品には、「ユートピアは可能か、不可能か」という宮崎駿の社会思想の課題追求が感じられます。これについては、「風の谷のナウシカ」の作品について現代におけるユートピア研究者たちの興味深い考察や研究が出ており、この中で特に、稲葉振一郎氏の『季刊窓』22号(1994年12月) に載せられた「ナウシカあるいは旅するユートピア  ――ロバート・ノージック笠井潔、そして宮崎駿――」より要約したものを紹介したいと思います。

 


風の谷のナウシカ
Nausicaa of the Valley of Wind 



 風の谷のナウシカ。1984年に発表されて以来現在も賞賛されている不朽の名作。
 監督はルパン三世カリオストロの城以来4年半ぶりの劇場用長編を手がける宮崎駿氏。プロデューサーは高畑勲氏。そして音楽は久石譲氏というスペシャルユニットにより制作された。

 火の七日間と呼ばれる最終戦争の後も人類は生き延びた。しかしそれから1000年後、地上の多くは腐海(ふかい)と呼ばれる蟲(むし)が守る森に覆われている。障気(しょうき)マスクを付けないと五分で肺が腐ってしまう死の森、腐海。その腐海が発する毒を恐れながら人類は生きてきた。そして、人は幾度も腐海を焼き払おうと試みた。しかし、その度に王蟲(オーム)の群れが押し寄せ、そして腐海は広がった。なぜ腐海は生まれ、そして存在しているのか。
 人は腐海を焼き払う事が出来るのか。人は腐海と共生出来るのか。

 腐海のほとりにある小さな王国、風の谷。国というにはあまりにも小さく、村というの方が正しいようなそんな小さな国はそれでも、年老いた国王と王女ナウシカを中心に貧しくとも笑いに満ちた豊かに暮らしていた。 

 ナウシカとは、ギリシャ叙事詩オデュッセイア」に登場する堅琴と歌を愛するパイアキアの王女の名前。
 宮崎駿が原作と脚本、そして監督をし、高畑勲がプロデューサーを務めた。アニメーションを文化にまで高めた作品。
 月刊アニメージュで連載されていた宮崎監督の同名の漫画の映画化ということになるが、この作品は若干他の作品と趣きが異なる。映画化に持っていくための舞台作り、映画が終った後は、映画で表現仕切れなかった事を表した作品となっている。

 『風の谷のナウシカ』には『Nausicaa of the Valley of Wind』以外にも『Warriors of the Wind』という悪名高い英語版のタイトルが存在する。『風の戦士』と訳すしかないこのタイトルは1985年にニュー・ワールド・ピクチャーズという配給会社によってオリジナルよりも20分もカットされ、またナウシカはザンドラというように登場人物の名前も改変させられ、セリフやストーリーまでねじ曲げられたもの。 

 「もう、誰も殺したくないのに」
 トルメキアに占領された日の夜、地下室でユパに漏らしたナウシカのこの言葉。この言葉にナウシカの思いのすべてがあると思う。
 それが子供であっても老人であっても、自分の身近な人、谷の人であっても、侵攻してきたトルメキア兵であっても、そして腐海の蟲達でさえもナウシカは殺したくないと願う。
 心優しき少女、ナウシカ。それゆえに彼女は苦しむ事になる。

 その者、蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし。
 失われし大地との絆を保ち、ついに人々を蒼き清浄の地へ導びかん。

 火の七日間を引き起こした巨神兵。自らも火の七日間ですべて滅んだはずだった。しかし、ペジテ市の地下で1000年眠り続けてきた者がいた。

 綺麗な水と土では腐海の木々も毒を出さないのです。
 汚れているのは土なんです。誰が世界をこんな風にしてしまったのでしょう。



ナウシカあるいは旅するユートピア ―ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿―

 このほど完結したマンガ『風の谷のナウシカ』(徳間書店、以下マンガ『ナウシカ』と略記)を通読してみれば、この10余年を通しての宮崎駿という一人の表現者の凄まじい思想的苦闘をそこにみて取ることができる。 
 雑誌『アニメージュ』(徳間書店)でのマンガ『ナウシカ』連載開始が1982年であるから、完結までに要した時間は単純計算で12年間ということになる。しかもこのマンガ『ナウシカ』のアニメーション化であり、「宮崎駿」という名前を世間一般で通用するブランドとすることともなった劇場用アニメーション『風の谷のナウシカ』(徳間書店博報堂、以下アニメ『ナウシカ』と略記)の興行が1984年であったから、本来マンガ家ではなくアニメーター、単独の芸術家的職人ではなくチームリーダー、企業家である宮崎は、集団作業、企業活動の成果としてのアニメ『ナウシカ』に満足できず、その完成のあともただ一人で慣れぬマンガの筆を執り、10年にわたってマンガ『ナウシカ』に取り組み続けてきたことになる。その間、宮崎はアニメーター、企業家であることを棄てずに、多くの優れた作品を手掛けてきたがゆえに、マンガは「余技」であらざるをえず、連載は幾度かの年単位の中断を余儀なくされ、私を含め少なからぬ読者はマンガ『ナウシカ』が永遠に未完のままとなることを危惧した。しかし、宮崎はそうした予想を裏切り、満身創痍となりつつも、10余年を掛けて作品としての完結にこぎつけたのである。  なぜそうまでしてマンガ『ナウシカ』は書かれねばならなかったのか?それはその継続、完結を著しく困難にしたもうひとつの、そして最も重要な要因そのものに関わっている。一部の読者が完結の困難たることを予想したのは、何もアニメーター宮崎の繁忙ゆえではない。ことはマンガ『ナウシカ』の内的なテーマそのものに関わっていた。宮崎はこの作品において、解決不能に近い思想的難問に突き当たっていたのである。この難問こそが、宮崎をして『ナウシカ』にこだわらしめた理由である。少なからぬ読者もまたその難問を共有し、その困難さに絶望を覚えたがゆえに、マンガ『ナウシカ』の未完を予想したのであった。少なくとも私はそうである。
 しかし、とにもかくにもマンガ『ナウシカ』は完結した。私は雑誌連載の最終回を読み終えた際、壮快な敗北感に打たれたことを覚えている。やや先走って言うなら、この作品は現代日本のユートピア文学(「文学」という形容はもちろん不正確だが)の最高水準を示すものである。宮崎はここで、現代日本から見えるユートピアの可能性と不可能性について、可能なかぎりつきつめて考え、それをエンターテインメント表現に定着させたのである。
 そこで、本稿の課題は、マンガ『ナウシカ』の内的なテーマ、その思想的難問(ユートピア問題)とは何だったのか、その難問に宮崎自身はいかなる解決を与えたのか、その解決は本当に解決となっているのか、を検討することである。
 しかしながら、マンガ『ナウシカ』の検討にすぐさま入ることは避け、迂回路をとることにしよう。マンガ『ナウシカ』の、宮崎の達成の意義を少しでも正確に測るためにも、われわれの時代の優れたユートピア論、とりわけユートピアの困難さと誠実に向かい合ったいくつかの業績と、たんねんに付き合っておく必要がある。


1 メタ・ユートピアからユートピアへ ――ノージックアナーキー・国家・ユートピア』再読 

 「メタ・ユートピア」とは、文字通りには「ユートピアの前提」あるいは「ユートピアを超えるもの」といった意味であり、一見したところ、その含意がわかりにくい概念である。しかし、このアイディアには二つのメリットがある。第一にそれは「ユートピアとは何か」「ユートピアとはどのようなものか」とただちに問うのではなく、「ユートピアを可能とするものは何か」「ユートピアが満たしていなければならない条件とは何か」と問うことの意義をわれわれに思い出させてくれる。第二にそれはこのように「ユートピアの条件」を問題化することをつうじて、思想史上のさまざまなユートピアのヴィジョン、その多様性を正面から問題とするようわれわれに促す。
 このような視角はマンガ『ナウシカ』を読むとき、きわめて有効である。マンガ『ナウシカ』は単にあるユートピア像を素朴に提示している作品ではない。まずわれわれは、それが冷戦体制の終焉過程に伴走して描かれたものであることを想起せねばならない。詳しくは本稿第三節を、そしてもちろんマンガ『ナウシカ』のテクスト自体を参照していただかねばならないが、それは最終戦争後の人類の破滅と再生の物語であるかのように始まりながら、やがてその最終戦争が本当は「最終戦争」でもなんでもなかったこと――人類は現に生き延びており、相変わらず戦争を続けていることに否応なく気づかされていく物語になっていく。そしてまたそれは、最終戦争を文字通りの「最終戦争」とし、その後に人類すべてを救済するユートピアを樹立しようとする計画を愚行として退けていく物語でもある。マンガ『ナウシカ』はこのように徹底してユートピア主義批判を遂行しつつ、なおその向こう側になんらかの「ユートピア」――「どこにもない場所」あるいは「良き場所」を、人間の社会にとってのより良き可能性を、いったいそんなことが可能かどうか、というメタレベルの問いとすりあわせつつ、それでもなおあきらめずに探求する物語である。冷戦体制下の核戦争の悪夢と裏腹なかたちでの永遠平和のユートピアも、マルクス主義社会主義ユートピアもその土台ごと崩れ去った「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)に、なおユートピアの可能性、ないしは不可能性を真摯に問うたマンガ『ナウシカ』は、すでにして「メタ・ユートピア」論を含意している。

ノージックユートピア論の復興

本節で検討の対象とするのは、哲学者ロバート・ノージックの名を世界に知らしめた『アナーキー・国家・ユートピア』(嶋津格訳、木鐸社。原著は Robert Nozick, Anarchy, State, and Utopia,  Basic Books. 以下引用は邦訳書から行ない、上下巻の通し頁を記す)である。本書はいわゆる自由尊重主義 libertarianism、すなわち19世紀的「夜警国家」の復活とも言うべき、普遍的ルールとしての法律の遵守をメンバーに強制し、その執行に要する費用を徴収する以外には、そのメンバーの生活にいっさいの介入をしない、つまり福祉国家的な再分配政策や後見的保護を行わない「最小国家 minimal state」のみが、個人の存在のかけがえのなさとその権利(その核心は、今風に言えば自己決定権である)の不可侵性を前提としたとき、道徳的に正当化しうる唯一の国家形態である、との主張のマニフェストとして知られている。その意味では80年代を席巻した新自由主義 neo liberalismの教典の一つとも言えよう。

   ロールズノージックの仕事は、「メタ倫理学」からより直截な倫理学への、倫理に対するメタレベルから倫理そのもののレベルへの大胆な下降であった。そこではある一定の倫理、道徳、望ましい社会秩序、いわばユートピアの包括的なヴィジョンが、分析哲学の伝統のなかで鍛えられた粘着的な推論に支えられつつ、狭義の哲学のみならず、法学、経済学などの広範な知見を動員して提示されていた。以後、彼らの仕事は哲学のみならず、人文社会科学一般にとっての共有財産となり、道徳哲学、社会哲学は一挙に復興を遂げたのである。今日の生命倫理学、環境倫理学などのいわゆる「応用倫理学」の隆盛もこの延長線上でとらえられなければならない。
 第二に、ノージックのこの著作は、単にユートピア構想を提示したということにおいてのみならず、そのユートピア像自体の内容において際立った独創性を持っている。本稿でロールズではなくノージックをとりあげることの意味もここにある。
 本書の題名はすでに見たとおり『アナーキー・国家・ユートピア』であるが、この題名はきわめて適確にその内容を要約している。ノージックは次の問いから探究を開始する。「もし国家が存在しなかったなら、国家を発明する必要があっただろうか。国家は必要か。国家は発明されねばならないか」(3頁)。つまり「国家は、暴力の独占を維持し領土内の人々を保護する過程で、不可避的に諸個人の権利を侵害し、それゆえ本質的に反道徳的な存在である」(iv頁)というアナーキズムの主張を真剣に検討することが、本書の第一の課題である。その検討の結果として、アナーキストの主張に反して「最小国家」は正当化しうる――誰の権利も侵害することなしに「最小国家」は建設されうること、しかしながら、それ以上の規模と職掌範囲を有する「拡張国家 extensive state」までは正当化できないことを結論する。
 そしてその第二の課題は、「しかし最小国家の概念または理念は、渇望の対象となる魅力に欠けるのではないか。それは、心をぞくぞくさせ、人々に闘争と犠牲の気持ちを奮い立たせることができるだろうか。誰か一人でも、その旗の下にバリケードを築こうという気になるだろうか。」( 481頁)という一文に要約されている。つまり本書の叙述の順序に従えば、「最小国家」の概念は,まずは一方の極のアナーキー、他方の極の福祉国家社会主義体制を含めた「拡張国家」という積極的な社会構想、それぞれ対極にありながら、ともに社会の現状を批判し、人びとのよりよい生き方へを可能とするユートピア的枠組みを追求する思想との対比において、消極的なかたちで導き出されている。そこでノージックは「最小国家」の理念が、あれも駄目これも駄目という手詰まりのなかでの消極的な選択肢などではなく、それ自体としての魅力を持つ積極的な選択肢でありうること、それは一つのユートピアでありうることを示そうとするのである。

メタ・ユートピアないしは「枠」 

 ではいかなる意味において「最小国家」のもとにおける社会はユートピアであると言えるのか。ノージックの解答の要約を行なうとすれば、「ユートピアはメタ・ユートピアである」( 506頁)となるだろう。やや長くなるが、以下、ノージック自身の言葉で語ってもらおう。 「最初の道筋は、人々が異なるという事実から出発する。」( 502頁)
「全員が住むべき最善の社会が一つある、という考えは、私には信じられないものに見える。」( 504頁) 
「導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう。(中略)ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこではだれも自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。」( 505-6頁)
「我々は、三つのユートピア主義者の立場を区別することができる。つまり、全員に一つのパタンのコミュニティーを強制することを許す帝国主義ユートピア主義、一つの特定種類のコミュニティーに住むことを全員に対して説得しまたは確信させようという希望をもつが、それを強制しはしない伝道的ユートピア主義、必ずしも普遍的にではなくともある特定のパタンのコミュニティーが存在し(存続可能であり)、そうしたいと思う者がそのパタンに従って生きることを希望する実存的ユートピア主義、である。実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。(中略)伝道的ユートピア主義者達は、その熱望は普遍的だが、彼らの好みのパタンへの支持が自発的である点が決定的に重要だと考えるので、実存的ユートピア主義者達とともに枠を擁護するだろう。(中略)他方帝国主義ユートピア主義者達は、彼らに不同意の者が他にいる限り、枠に反対するだろう。」( 518-9頁)
「我々がこれまで述べてきたユートピアのための枠は、最小国家に等しい。」( 539頁) 「最小国家は我々を、侵すことのできない個人、他人が手段、道具、方便、資源、として一定のやり方で使うことのできないもの、として扱う。それは我々を、個人としての諸権利をもちこのことから生じる尊厳を伴う人格として扱う。我々の権利を尊重することで我々を尊敬をもって扱うことによって、それは我々が、個人としてまたは自分の選ぶ人々とともに、同じ尊厳をもつ他の個人たちの自発的協力に援助されて、自分の生を選び、(自分にできる限り)自分の目的と自分自身について抱く観念とを実現してゆくこと、を可能にしてくれるのである。どんな国家や個人のグループも、どうしてこれ以上のことをあえてするのか。また、どうしてこれ以下しかしないのか。」( 540頁)
 こうしたノージック最小国家論とユートピア論はもちろん、すでに述べたような20世紀英米圏の分析哲学以外にも、さまざまな伝統を踏まえている。第一に、ノージックの議論の出発点としての、個人の侵すことのできない権利と、人格としての尊厳、という思想について考えてみよう。上の最後の引用における、「他人が手段、道具、方便、資源、として一定のやり方で使うことのできないもの」というフレーズは、あからさまにカント的であるが、ロールズもまたカント主義的なスタンスを隠さない。社会における正義の基準を効用、快楽、利益に置く、現代経済学までをも含むいわゆる功利主義の伝統とは異なり、彼らは正義の基準をあくまでも権利のうえに求める。この意味でノージックロールズはともに「権利志向的正義論者」と呼ばれる。  しかし、ノージックにとってカントと同じくらいに重要であるのはジョン・ロックである。ノージック独自の権利論(これは彼自身によって「権原理論 entitlement theory」と呼ばれている)、それはあからさまに『統治二論』におけるロックの所有権理論、いわゆる「労働による所有」論を援用したものである。また彼の「最小国家」論も『統治二論』の社会契約論によく似ている。ロールズの『正義論』もまた現代における社会契約論的伝統の復活とみなすことができるが、ロールズのそれが、誰もそこから逃れるべきではない包括的なものである点においてホッブズやルソーのほうに似ているとするならば、社会契約や国家の外側に生きる人びとの存在も容認するロックの理論のほうにノージックのそれは似通っている。
 第二に、かように(功利主義的、効用志向的にたいして)権利志向的であることを思えば意外にみえるかもしれないが、ノージックは(ロールズとともに)経済学、とりわけ限界革命以降の新古典派経済学の思考スタイルと分析装置に強く依存している。お互いの権利を尊重し、それを侵害し合わないという制約のもとで、それぞれが自己の利益を合理的に追求して行動するという個人のモデルは、いわゆるホモ・エコノミクス、合理的経済人そのものであるし、「最小国家」の仮想的な生成過程は、一種の市場均衡過程、ないしは自然選択的進化過程として描かれている。またメタ・ユートピア、「枠」の構想にしても、それが諸ユートピア間の競争市場、そのなかで各ユートピア実験が自然選択のふるいにかけられる進化の場所として提示されていることは言うまでもない。
 第三に、ノージックユートピア構想が帯びている、強いアメリカニズムの色彩について触れておかねばならない。まず、ノージックの権利論・自然状態論の先達たるロック自身が、『統治二論』において、「自然状態」や「労働による所有」といった仮説のリアリティーを証してくれる現実として、同時代のアメリカにおける植民社会やネイティヴ・アメリカンの社会をあげていることを想起せねばならない。もちろん、ロックの理論はアメリカ独立革命にとって思想的支えの一つであった。またクリシャン・クマールは、19世紀のアメリカ合州国オーウェン主義やフーリエ主義などの社会主義的な、あるいはシェイカーなどの宗教的なコミュニティーにとっての実験場であったことを指摘し、ノージックを引きつつ「19世紀アメリカは、この(ノージックのいう意味での――引用者)メタ・ユートピアであった。」(Krishan Kumar, Utopia & Anti-Utopia in Modern Times, Basil Blackwell, p.81.)と述べている。 
 さて、以上を踏まえたうえで、いよいよノージックユートピア論にたいする、私自身の評価を行なわねばならない。 

 メタ・ユートピアとしての「ユートピアのための枠」という概念の提出がノージックユートピア論にたいする貢献であることは否定できない。しかしノージック自身は、そうした「ユートピアのための枠」のなかで、いかなるユートピアを欲し追求するのだろうか。『アナーキー・国家・ユートピア』の記述からは、その点が読み取りにくいのである。しかしこれを学問的禁欲、自己限定と看過するわけにはいかない。すでに考察してきたとおり、ノージックのメタ・ユートピアがそれ自体真にユートピアであるためには、「ユートピアのための枠」が設定されているのみならず、そのなかで多様なユートピア的実験が実際に行なわれていなければならないのだから。 
 ノージックのメタ・ユートピア論自体の成立の過程を忖度するならば、彼の言う「帝国主義ユートピア主義」、つまり広い意味での全体主義マルクス主義、また社会民主主義アメリカ民主党リベラリズムなどの福祉国家思想への批判が大きなモメントとなっているはずである。そうした「帝国主義ユートピア主義」は、他のさまざまなユートピア主義を無視するのではなく、それらを否定するというかたちで、それらとの関係を取り結ぶ。人間の世界には他にさまざまな可能性があることを事実としては認めつつ、価値的にはそれらを否定する。しかもその否定を強引に現実化しようとする、つまりそれらの意義を否認するだけではなく、可能な場合には実力行使に訴えてでもそれらの選択肢自体を現実的に抹消しようとする。学生時代は左翼活動家だったという彼を転向させたのは、「帝国主義ユートピア主義」のこうした息苦しさ、暴力性であったのだろう。 
 だが逆説的にも、ユートピアの多様な可能性にたいして真摯な態度をとっているのは、ノージックよりもむしろ「帝国主義ユートピア主義者達」のほうである。実際には「帝国主義ユートピア主義者達」は、自分たちの路線がさまざまな可能性の一つでしかないことを知るがゆえに、躍起になって他の可能性を否定しにかかるのである。これにたいしてノージックは、すべてのユートピアの可能性にたいするメタの立場に身を置こうとする。そのことによって、「他の可能性」ということ自体が無意味となるような、ある唯一絶対の立場を志向することに――おそらくは意に反して――なってしまっている。こうした立場を、マルクーゼの言葉を借りて「抑圧的寛容」と評することができよう。
 もちろんノージックの立場にたいするメタレベルも存在する。それは彼の立場と「帝国主義ユートピア主義」をともに同等の可能性として認める立場である。このようなメタの立場は言うまでもなく実践的、政治的には無意味であり、たしかにそこからはノージックはきちんと降りている。そのことによって「帝国主義ユートピア主義」にたいしては否定というかたちで真摯に対応している。しかし、彼が許容する「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」にたいしてはどうだろうか? その内実にたいして彼はまったく関心を示していない。「枠」と「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」とが互いに「許容」し合うということまでは論証されていても、「駆り立て鼓舞」し合うとまでは論証されていない。 
 「許容してくれること」こそが、無関心こそが「ユートピアのための枠」の本領であることは認めるべきであろう。しかし、ではいかなるユートピア主義が「ユートピアのための枠」を求めるのだろうか。「帝国主義ユートピア主義」であれ、「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」であれ、具体的なユートピア的実験の側は、けっして「枠」にたいして無関心ではありえない。さらに重要なのは、諸「ユートピア主義」間の関係の様態である。さまざまな「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」の試みは、相互否定という以外のかたちで、真摯な関係を取り結ぶことができるのか、それが可能だとしたらたとえばどのようなものなのか。だがこうした問題について、ノージックはまったく検討を加えていない。 
 今や問題は明らかであろう。ノージックは「メタ・ユートピア」「ユートピアのための枠」という魅力的な概念を提示して、「ユートピアとは人間の世界にとっての別の可能性のことである」という、よく知られた命題に新たな光を当てた。「可能性」が問題であるならば、それは本質的に単一ではなく、複数であるはずだ。この複数性、多様性、多元性をユートピアにとっての本質問題として提起したということの意義はどれほど強調しても足らない。しかし残念ながら、ノージックユートピア論はこの複数性「についての」思想、複数性にたいするメタレベルの立場であって、複数性「を生きる」思想ではなかったのだ。 
 「ユートピアとは人間の世界にとっての別の可能性のことである」。しかしその「可能性」とはいったいどのようなレベルのものまでを含むのであろうか。現実に生きるわれわれにとって実現可能なレベルまでか、実現は不可能だが想像することは可能なレベルまでか、想像することもできないが、しかし、われわれにとって想像もできないようなものがかつて、あるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれないといういわば「信仰」のレベルまでを含むのか。だがいずれにせよ、その「可能性」とは純粋に論理的な可能性のことではないのだ。それは生きられるもの、実践されるもの、体験されるものなのである。論理に忠実に考察を進めたノージックの所論に欠けていたのはユートピアのこの側面である。  アニメであれマンガであれ『ナウシカ』のテクストに直接触れたことのある読者であれば、そこにおける世界の体験の豊かさを想起されるであろう。そこでは美しいものも醜いものも、圧倒的な迫力と尊厳をもってわれわれに迫ってくる。これをただ単に、美的なフィクションであり、ヴィジュアルな表現であるマンガ、アニメーションと、文字言語によるアカデミックな表現との違いであると言ってすますべきではない。アカデミックな哲学の伝統のなかでもまた、実存論、現象学などによって哲学なりの仕方で人間の体験の何たるかについての考察は延々と積み重ねられてきたからである。
 そこで次節では、三角測量の第二ポイントとして、現代日本の一人の小説家によるユートピア的体験についての実存論的、現象学的考察を検討の主題とする。 



「青き清浄の地」とは何か ――宮崎駿風の谷のナウシカ』を読む 
アニメ『ナウシカ』とマンガ『ナウシカ
 アニメ『ナウシカ』のストーリーは、原作たるマンガ『ナウシカ』冒頭4分の1程までのストーリーを強引にはしょってまとめ上げたようなものであって、マンガ『ナウシカ』においてははるかに雄大なスケールと、複雑なプロットの物語が展開されている。しかしながら、いったんできあがってしまった作品としてのアニメ『ナウシカ』の重力はなまなかなものではなく、マンガ『ナウシカ』の物語もその最後のクライマックス直前、単行本で言えば第6巻の半ばあたりまでは、おおむねアニメ『ナウシカ』のそれの反復になってしまっている。
 アニメ『ナウシカ』は世界の破滅と再生、救済の物語であった。人間が汚し、その結果人間の生存さえ困難なものとなり果てた世界、その困難の象徴たる、奇怪な有毒の生態系「腐海」――。そのなかで人間たちは力を合わせて困難に立ち向かうどころか、相も変わらず戦争を繰り返している。かつて世界を破壊した最終戦争「火の七日間」の超兵器巨神兵を「腐海を焼き払い、人間の世界を取り戻すため」との言い訳のもとに復活させ、あるいは「腐海」それ自体を生物兵器として利用し、という愚行の応酬に主人公ナウシカは、「腐海」こそが人間の技術文明の生み出した汚染物質を還元、無害化して世界を浄化しているという真実の告知者として、人間相互の、そして人間と自然生態系との戦争を終わらせる調停者として対峙する。
 マンガ『ナウシカ』の物語も、単行本第6巻収録分まで、その最後のクライマックスの直前までは大体アニメ『ナウシカ』と同様のモチーフに導かれて展開している。どちらにおいても、「腐海」の真実の発見者ナウシカは、その真実の発見ゆえにただちに救われるわけではなく、その発見にもかかわらず、というよりもその発見のゆえにこそ深く傷つき絶望する。真実を知ったところでもう遅すぎるという絶望――「腐海」の世界浄化の営みを見抜けなかった人間たちは、その浄化の恩恵にあずかることはできず、むしろ「汚れそのもの」として滅ぼされるしかない、という絶望が彼女を打ちのめし、自死へと駆り立てる。しかし、彼女は「腐海」の主とも言うべき王蟲に救われ、その祝福を受けて蘇り、「失われた大地との絆を結ぶ」伝説の救世主、「青き衣の者」としてこの世に帰還する。
 ところが、アニメ『ナウシカ』の物語はここで大団円を迎えるのにたいして、マンガ『ナウシカ』の物語はこのナウシカの帰還以降、ことに巨神兵、アニメ『ナウシカ』では世界を滅ぼした怪物、あたかも旧世界の高度技術文明の邪悪と愚かさの化身であった巨神兵の再登場をきっかけとして急転直下、それまでの物語すべてを覆すかのごとき驚くべき展開を示す。周知のごとくアニメ『ナウシカ』では巨神兵はクライマックスにおいて早産の状態で登場し、怒って「風の谷」へと殺到する王蟲の群と対決するが、技術文明の浅薄さを象徴するかのごとくあっさりと腐れ落ち、自滅してしまう。しかしマンガ『ナウシカ』では巨神兵は、これ以上の戦争の継続をくいとめようと帰還したナウシカ、そのために邪悪な兵器たる自分を胎児のうちに葬ろうとしたナウシカの前で人工子宮から生まれ出て、こともあろうに彼女を「ママ」と呼ぶ。ナウシカも彼(?)を自分の子と認め、「オーマ」と名付け、彼を伴って土鬼帝国の聖都シュワの「墓所」、「腐海」を生物兵器として利用することを可能とした旧世界の邪悪な技術の貯蔵庫を封印するために旅立つ。このナウシカ最後の旅こそ、マンガ『ナウシカ』の物語が書かれざるを得なかった真の理由を明らかにしているのだ。
 しかしながら、すべてが巨神兵の再登場とともに明らかになったという言い方は必ずしも正確ではない。伏線はすでにいくつか張られていた。この点につき、アニメとマンガの対比をも踏まえた上で若干考察しておかねばならない。
 まず目立つところでは、「腐海」焼却計画の有無である。マンガ『ナウシカ』にはそもそもそういった計画自体が存在せず、緩やかにしかし止めようもなく拡大を続ける「腐海」の存在感は圧倒的かつ絶対的である。アニメ『ナウシカ』では「海から吹く風様に守られておる」ユートピアのごとく描かれた「風の谷」にも、他の土地と同じように「腐海」の毒は静かに浸透し、出生率は低下し、人口は減り続けている。巨神兵の発掘と復活も、「腐海」焼却計画などとは何の関係もない。アニメ『ナウシカ』では巨神兵は兵器としてのみならず、「腐海」焼却計画の切り札としてもトルメキア王国と都市国家ペジテとの間で争奪の的となるのだが、マンガ『ナウシカ』ではうっかり復活されかけたものの、その兵器としての利用を恐れたペジテによって封印されようとした巨神兵をトルメキアが奪う、と設定されていた。しかし巨神兵の運命はさらに変転し、トルメキアからその交戦相手である土鬼の手に落ち、再生が試みられるが制御装置(?)たる「秘石」の紛失ゆえにそれもままならず、結局、終盤で「秘石」を手にしたナウシカと出会うまでは物語の前面に登場してこない。 
 しかし、何より重要であるのは、「腐海」焼却計画自体の不在のために、ナウシカが手にした「腐海」の真実もそれ自体では世界を救うメッセージなどにはならないということである。「腐海」には守られる必要などない。またこの真実自体、ナウシカの独占物ではなく、彼女の師である放浪の学者剣士ユパも独力でほぼ同様の結論に達しているほか、一族ぐるみでその真実を実践している「森の人」(後述)の存在がある。そしてナウシカの探求の旅においても、この真実の発見は終点であるどころか出発点にしかすぎない。「腐海」が世界を浄化しているとして、その人間にとっての意味、あるいは「腐海」にとっての人間の存在の意味はいったい何なのか、また現在進行中の戦争における「腐海」の軍事利用はいかなる意味を持つのか、を解明すべく、ナウシカは長い旅に出発する。

 ナウシカにとって今や「青き清浄の地」はいかなる意味においても、人間にとっての選択肢としての「可能性」ではない。そのかぎりでは、それは伝統的な意味での「ユートピア」ではない。だがそれはいわゆる「彼岸」ではない、明確に現実の世界のなかに「存在するもの」である。テレパシーによってであれ、ナウシカが実際にそこに旅した場所である。そして人間の手の製作物でもある。
 これを仮に「ユートピア」と呼ぶとしても、それはノージックユートピア主義の三分法のどこにもあてはめることはできない。それが「帝国主義ユートピア主義」の直接の産物だとしても、ナウシカの裁定を経たあとではもはやそれを「帝国主義ユートピア主義」の目指したものと呼ぶことはできない。それはおよそいかなるユートピア主義によっても目指しえない。それを意図して建設することもそこに旅することもできない。そうではなく、それは人間の意図にかかわらず端的に存在し、向こう側から偶然にやって来て、人間が抱く構想としてのユートピア主義の方を逆に審問に掛ける、言わば「他者」である。その出会いの体験は笠井が論じたような、可能性/不可能性の純粋体験に似ている。ただし笠井が結局はその姿をとらえそこなっている体験の根拠としての「他者」を宮崎はみごとに描いたのである。

 ナウシカがこの「青き清浄の地」にたいするときのこの距離のとり方、関係のとり方をどう理解すべきか? ここでわれわれはあのナウシカと番人の対話を、そこでナウシカが確認したことを思い出さねばならない。けっして自分が愛することのできないものたち、けっして自分を愛してくれることのないものたちと、われわれは同じ世界をわけあって生きていかなければならないということ。そのような、愛の可能性の向こう側にいるものたちにたいして、どのような態度をとるのか? それは「決して癒されない悲しみ」の問題である。愛の癒しの手が届くことがないところ、誰もが抱えるであろうその「悲しみ」にたいしていかなる関係を取り結べるのかという課題。この問題はむろん「青き清浄の地」にのみかかわるのではない。ナウシカの人並みはずれた愛する能力、さまざまなものをその存在のそれぞれの固有性において肯定する力でさえも審問に付す「青き清浄の地」によって、さらに母の思い出や巨神兵オーマによって、極限的にはあらゆる人、あらゆるものとのかかわりにおいて浮上してくる問題として問われているのだ。
 互いに互いの愛の可能性、理解の可能性の外側にいるもの同士が出会ったとき、憎悪と不信の支配するホッブズ的戦争状態はむしろ自然なことである。ナウシカが民衆に「憎しみよりも友愛を 王蟲の心を」と呼び掛けたとき、彼女はまさにこの「決して癒されない悲しみ」の問題にたいして憎悪と不信以外の道のあることを主張していたのである。しかしながら、民衆がそこに聞き取ったのはむしろ救済の福音、無限の愛する力を持ってすべてを引き受ける救世主、神の到来であった。そしてそのすれちがいをそのままに「墓所」への旅に出たナウシカは、「庭」でその道の峻烈なることを思い知らされた。その結果が彼女の最後の欺瞞、救世主の演技を通す決意である。彼女はその道を、あくまで自己の倫理としてのみ引き受けたのである。

 マンガ『ナウシカ』での「旅」には「自己のアイデンティティ確立の悩み」など立ち入る隙もない。帰るところも行き場も失った『ガンダム』の孤児たちがひたすら自我のうちへと引き籠もり、世界から疎外されたという被害者面をしながら逆に世界の方を疎外していくのにたいして、マンガ『ナウシカ』の主人公たちはそのような意味での自我などまるでもたない。『ガンダム』が結局は旅する主人公たちだけの物語であるのにたいして、マンガ『ナウシカ』は複数の旅人たちの物語であり、旅人たちが出会うものたちもまた固有の事情をもった旅するものたちである。王蟲など蟲たちは言うに及ばず、巨神兵、そして一カ所にとどまり続ける「庭」の番人、あるいは「青き清浄の地」でさえも、けっして自らのうちに、「アイデンティティ」などのもとにとどまり続けることのない旅するものたちなのである。
 ノージックと笠井のそれぞれのユートピア論が失敗しているとすれば、「ユートピアの破壊というユートピア」を描くに終わってしまっているからである。論者の主観的意図はどうあれ、そうしたユートピア論が普通どのように読まれるのかというと、結局は単なる反ユートピア論、ユートピアに振り回されることの愚かさを避けて、居直り的な自己肯定、現状肯定を結論することの勧めとして読まれてしまうのである。「物語の破壊という物語」にしても同じことだ。
 いかなるユートピア構想であれ、すべての人を満足させることなどできず、いかなる物語であれ現実をすべて解釈し尽くすことなどできない。たえず人間の欲望、意思、行為は、そして人間の手の届かない外にある現実は、そうした枠組みを裏切り続ける。ただし問題は、単なる反ユートピア、あるいは単なる反物語はそうした「外部」、過剰としての現実に人を向き合わせるよりは、そこから目を背けさせる方に機能してしまうということである。過剰としての現実を無理やりに「プロクルステスの寝床」に合わせて裁断してしまう狭量なユートピア構想や物語のほうが、逆説的にも、単なる反ユートピア、あるいは単なる反物語よりもそれにたいして真摯に対応しているのである。
 マンガ『ナウシカ』は過剰としての現実、「われわれにとって想像もできないようなものが、かつてあるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれない」ということこそが、最も過酷なユートピアでありうることをわれわれに突きつけた。それをなしえたのは、この物語が「旅」の物語として描かれているからなのである。 

                               稲葉振一郎 『季刊窓』22号(1994年12月)