ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

36. トルストイのイワン王国 ~無抵抗主義、反戦主義を反映した思想~

 トルストイは、もっとも偉大な反逆者の一人であり、その長い嵐のような生涯を通じて、ロシア正教会や政府、文学的伝統、そして自身の家族とさえ対決した人でした。

 

 そ反面で彼は保守主義でもあり、科学的実証主義の時代にありながら、なお神の理想を飽くことなく求めました。彼はリアリズム小説の完成者であると同時に、死に関する省察によって実存主義の先駆者とされています。

 

またその小説に生彩を与えている旺盛なる精神は、現実の人生をはるかに超えて、我々に人生の実相を伝えてくれます。

 


 19世紀ロシア文学を代表する巨匠トルストイは、ヤースヤナ・ボリャーナに地主貴族の四男として生まれ育ちました。大学中退後しばらく放蕩した後、従軍を機会に処女作『幼年時代』等を発表し有名になります。

 

帰還後、領地の農民の教育事業に情熱を注ぎ、1862年の幸福な結婚を機に『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』を次々と完成させました。

しかし、その後大きな転機を迎え、私有財産を否定し『神と人類に奉仕する』求道者になっていきますが、家族とは不和に陥ります。1910年、家出先の鉄道駅長官舎で波瀾の生涯を閉じました。

 トルストイは青年期から「生の目的とは何か」を求めて著作を中心に探求したものの、彼に救いの道を示したのは農民だったといいます。 


 1859年(安政6年)、30代のトルストイは、ヤースナヤ・ポリャーナの邸内に私立学校を建て、午前は授業、午後は近隣へのあらゆる奉仕活動という独自の教育の中から、農民教育、農奴解放そして世界平和を訴えました。

 信条はやがてキリスト教アナーキズムとなり、聖書を書き改め、教会の権威も否定するようになっていくことになりますが、その結果が破門宣告でした。さらに、抑圧によって自己保全をはかるがゆえに体制的国家に反対し、所有者が力によって保全しようとするがゆえに私有財産制も否定しました。

 そして、人類の階級も国家もない世界への歩みは、経済的決定論と暴力的階級闘争を唱えるマルクス主義とは反対に、愛という至上の法則の遵守と、あらゆる暴力の拒絶による個人各自の道徳的完成によるという理想主義を抱きます。

 トルストイは身の回りの必要な物は手作りし、著作の原稿料も受け取り拒否をしています。ただし、「復活」の原稿料だけは政府から迫害されていたドウホボル教徒への救済にあてていますが。ちなみに日露戦争勃発に際しては反戦論文を発表しますが発禁処分となり、日本ではこれを「平民新聞」が掲載します。

 日本へは、白樺派を主として大きな影響を与え、武者小路実篤ユートピア主義者として「新しき村」を造っています。有島武郎も自分の農場の相続を放棄して、農民に開放しています。 トルストイ白樺派に限らず、内村鑑三やこの時代の日本の作家に強い影響を与えていました。与謝野晶子の「君死に給ふことなかれ」はこの論文の影響だと言われています。

 深い信仰に基づいた彼の信条は真摯に社会性を求めてはいるものの、個人的な実践へと向かいます。肉欲の克服や菜食も含めてこのあたりは賢治と共通するところがあります。宮沢賢治トルストイから深く影響を受けていますが、それは「注文の多い料理店」の広告文に「イヴン王国」という言葉が記されていることからも明らかです。 

 「イワンの馬鹿」では、二人の兄、一人は大きな軍隊をもてば金持ちになれると確信をもち、もう一人はお金をもてば何一つ苦労することはないと信じてやまない人物をテーマに展開されています。しかし、大きな軍隊をもってみても、さらに大きな軍隊にやっつけられ、無一文に、お金を増やしても、もっと大金持ちに裸にされてしまう話しを通じて、トルストイは何が大切かをイワンの労働と平和主義に生き方の方向を諭しています。

 

 トルストイの影響を受けて生まれた「新しき村」


 「新しき村」は白樺派の文学者、武者小路実篤が人類愛・人道主義をモットーとして提唱した生活共同体の運動の一環で、自給自足を目指した共同体として九州に造った村の名前です。ロシア革命の影響のもと、トルストイの実践をモデルとしたものです。


 1918年宮崎県児湯郡木城村(現、木城町)に建設し、各人が一定の義務労働を分担して衣食住が無料で得られる社会をめざしました。ダム建設のため移転しましたが、現在も埼玉県内で継続されています。 

 白樺派トルストイの影響を強く受けていますが、有島武郎も自分の農場の相続を放棄して、農民に開放しています。トルストイ白樺派に限らずこの時代の日本の作家に強い影響を与えていました。日本ではロシアにもない「トルストイ研究」という専門研究誌も発行されていました。


 しかし、トルストイ思想理解は芸術家としての範囲に留まっていたと考えられます。トルストイアンの代表者とも言える武者小路実篤ナチスのベルリン・オリンピックに興奮し、戦争中も「日本文学報国会」の劇文学部代表として活躍しました。

 

実は先に記した「トルストイ研究」(大正6年1月の号)の中で、堺利彦は日本でのトルストイの流行について、改革を否定してただ精神の修養に帰着できるので平穏無事に済むところが気に入られていると批判しています。ガンジーもそうですが、トルストイは無抵抗でありながらも革命者、反戦主義者である点をトルストイアンは忘れていた、あるいは見ることを拒んでいたと思わざるを得ません。賢治も例外ではなかったと思います。

 ちなみに中華人民共和国人民公社毛沢東が創設したものですが、彼は「新しき村」からその発想を得たようです。魯迅の弟、周作人が中国に紹介したことによっています。魯迅自身も実篤の戯曲を翻訳しています。

 

 

トルストイの祈り

 

 わたしは知ったのだ--人はだれでも自分自身のことを思いわずらうことによってではなく、愛によって生きるのだ、ということを。

 

 母親には、生きるために自分の子どもたちにはなにが必要なのかを知る力があたえられていなかった。金持ちには、自分自身になにが必要なのかを知る力があたえられていなかった。そして、人間はだれひとり、自分にとって日暮れに必要なのは、生きた人間のための長靴なのか、死んだ人間のための突っ掛け靴なのか、知ることができないのだ。

 

 わたしが人間だったとき、生き残ることができたのは、自分で自分のことを考えたからではなく、通りすがりの人とその妻の中に愛があって、わたしをあわれみ、愛してくれたからだ。みなしごたちが生き残ったのは、その子たちのことを、いろいろと考える人がいたからではなく、他人の女の心に愛があって、その女があの子たちをあわれみ、愛してくれたからだ。どんな人でも、生きているのは、自分で自分のことを考えるからではなく、人々の中に愛があるからなのだ。

 

 わたしは前から、神が人間に生命をあたえ、人間が生きることをのぞんでおられるのを知っていた。今、わたしはさらにもう一つのことをさとった。

 

 わたしがさとったのは、こういうことだ。神は人間がはなればなれで生きることをのぞんでおられない。だから、ひとりひとりの人間が自分のためにはなにが必要なのかを、神は人間におしえてくださらなかった。神がのぞんでおられるのは,人間がみんないっしょになって生きることだ。だから、すべての人間にとって、自分のために、しかも、みんなのために、必要なのはなにかを教えてくださったのだ。

 

 今、わたしはさとった--人間が生きているのは、自分のことに心をくばっているからだというのは、ただ人間がそう思いこんでいるだけにすぎない。人間はただ愛によってのみ生きるのだ。愛の中にいる者は、神のなかにおり、神がその人の中にいる。なぜなら、神は愛にほかならないからだ。」