ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

34. 国宝美術作品「十便図・十宜図」 最高峰の作品となった理想郷を描いた文人画

 

 日本初のノーベル文学賞を受賞した川端康成(1899~1972)は、美術にも深い造詣を持ち、多数の美術品を収集しました。川端は戦後になって本格的に美術品収集を始め、原稿料の多くを注ぎ込みました。川端は、戦後の混乱した世相の中で古いものに新しい力を見出し、美によって己を支えたと記していますが、そのコレクションの中には、後に国宝の指定を受けることになった池大雅与謝蕪村の競作「十便十宜図」がありました。

 この国宝ともなった「十便十宜図」とはいったいどのような美術作品なのでしょうか。


 日本文人画の2大巨匠、池大雅与謝蕪村の競作として作成された「十便図・十宜図」は、縦横18cm程の世界に描かれた理想郷です。そしてこの作品の詩と絵は、十便図が山中での暮らしは都会より便利であるという池大雅の賛歌で、そして四季折々、刻々と変化する自然の素晴らしさ、10個の宜しきことを詠ったのが与謝蕪村が描いた『十宜図』です。
写真:「国宝 十宜図」のうち宜秋図、与謝蕪村

 書かれている詩は、両者が憧れていた中国は明の時代から清にかけての文人・李漁の七言絶句。2人はその詩を自ら書き、そこに絵を添えたのでした。大雅は明るく大らかにのびのびと、蕪村は細やかに優しく、まるで2人の才能が競い合うように、補い合うように融合した作品です。2人の描いた文人画は「詩書画三絶」と呼ばれ、詩と書と絵の総合芸術でした。

  江戸の俳人与謝蕪村は, 画家が本職でした。奥の細道の屏風を何枚も書いているのは 生活のためでした。「小説与謝蕪村」には、 彼の貧乏ぶりが描かれていましたが、南画 だけで生活するのは大変な苦労だったようです。
池大雅との競作「十便十宜図」の注文があった時、謝春星(蕪村の画家としての名) は、心に期すものがあったようです。南画の世界での第一人者池大雅が、十便を担当し たのに対抗して、十宜を書いた春星は、一世一代の力作を投入しました。


しかし世間の評判は池大雅の十便図に集中し、十宜図は、それほどの評判を呼べな かったようです。正直に言って、今見ても池大雅の方が優れていると私は思います。
晩年の名作「夜色桜台図」の雪景色で蕪村は画家としても超一流の名を残すことにな ります。絵もヒットせず、俳諧も儲からないといった貧乏生活の中で、あの雅びとも 言える、芸術の数々を生み出したパワーは、貧乏暇なしの切迫感だったのでしょうか。
写真:「十宜帖」のうち 宜夏図 

 憧れの生活を、人としての遊びの境地を描いた日本文人画「十便図・十宜図」。この作品は、本当の幸せとは何かを考えさせてくれるものです。
  

 陶器が語る来世の理想郷「中国古代の暮らしと夢」
来世への憧れが詰まった陶器の世界


 古代中国の人々は、人間の霊魂は不滅であり、墳墓がこの永遠不滅の霊魂の住まいであると考えていました。また,死後の世界は,現実世界の延長であり、そこでの暮らしぶりは、来世となんら変わるところがないと考えていました。そして、祖神となった祖先は、正しく祀られれば、子孫のために災厄を退け、福をもたらすが、正しく祀られなかった場合や、来世で不幸な目にあった場合には、子孫に悪い影響をおよぼすと信じられていました。そのため、墓主が安逸で充足した生活が送れるように、現実世界のさまざまなものを明器や俑に作ったのです。
こうして地下の世界に、現世の生活、それも「生きる喜び」にあふれた理想の生活が再現されました。 

 古代中国の人々は、死後の暮らしのための生活用具一式をミニチュアのやきものや木などで作り、遺体と共に墓に納めました。死者が生前と変わりのない満ち足りた生活が出来るようにとの思いを込めて制作された、これらの副葬品を明器(めいき)と総称し、そのうち人物をかたどった一群は区別して俑(よう) と呼ばれます。先祖の霊魂は不滅であって、墓で暮しつつ、正しく祭ってくれる子孫を守護し、安寧と幸福を約束すると信じられていたようです。中国の墓よりでてきた陶器に、当時の人々が死者の暮らしに託した理想的な生活を知ることができます。 


水●(●は木へんに射)(すいしゃ、高86.5cm)は、蓮池にそびえ立つ後漢期(25-220)の3層の楼閣で、全体に鉛を媒溶剤とする緑の銅釉が掛けられています。1層目の池には鴨や魚、スッポンなどが泳ぎ、屋根付きの2、3層目には、弩(ど)と呼ばれる機械仕掛けの弓を構えた人物や猿、屋根の頂には瑞鳥が乗っています。2層目の欄干の下には、支えとなる木組みの斗●(●は木へんに共)(ときょう)と思しき構造が見られ、日本の五重塔などの木造建築を彷彿とさせます。京都大学人文科学研究所の田中淡・教授によると、重層的な建築が可能となる以前には、まず土を突き固めた版築(はんちく)と呼ばれる土壇を階段状に築き、その上に木造の建物を並べたようです。これでは外観は高層でも、構造的には平屋の集合と変わりません。『史記』に、神仙思想に傾倒した前漢武帝(在位・紀元前141-87)が高台を築いたとの記述があり、このころに仙界への憧れを示す木造の高層建築が作られた可能性を示唆しています。水●(●は木へんに射)(すいしゃ)は当時の建物の構造を三次元的に示す、またとない資料と言えるでしょう。 


後漢期の灰陶の猪圏(幅42.2cm)は豚小屋。餌を食べる雄豚の傍らに雌豚が横たわり、子豚に乳を与えています。階段の左右はトイレで、排泄物を豚に処理させていたと分かります。このスタイルは現在でも、南方に残っています。他にも鶏小屋や犬小屋、人間の住居の全体構造、井戸やカマド、収穫した穀物を納める倉庫などを模した様々な明器が知られており、当時の人々の生き生きとした暮らしぶりが窺がえます。 


河南省安陽にある商代殷墟の王墓(紀元前14-11世紀)からは、殉死させられた奴隷らしい多くの人骨が発掘されています。人物俑は、殉死者の代わりに作られたとするのが今日の考古学上の通説でしょう。現時点では、山東省臨●(●はさんずいに、巡のしんにゅうを除いた部分の下に田)(りんし)で出土した春秋(紀元前722-481)晩期の舞女俑が、陶製では最古と考えられているようです。これより古い木製の俑があったとしても、朽ちて残らなかった可能性が高く、創始時期の確定は容易ではないでしょう。漢代に成立した『礼記』檀弓(だんぐう)に、俑を考案した人物について「まるで生きている人を用いているようで、不仁である」とする孔子(紀元前551-479)の言葉が記されています。儒家にとって古代は理想の聖人の世であり、奴隷の殉死などは想像の外だったに違いありませんから、こうした認識もあるいは止むを得ないのかも知れません。ともあれ木製か陶製かは不明にせよ、孔子の時代に精緻な人物俑があったのは間違いないようです。


 身分や財力による程度の差はあっても、古代中国の人々やエジプトのファラオたちが、現世の暮らしを丸ごと来世に持ち込もうとしたのは確かです。『礼記』の郊特犠や祭義の記述によると、死者のタマシイは天に昇る魂(こん)と、地下の不滅の肉体に宿る魄(はく)に分裂すると考えられていたようです。明器は後者の魄が用いる品々です。お盆の迎え火の風習が示すように、天に昇る魂への信仰は、今日の日本でもある程度は生きています。しかし膨大な副葬品を伴う魄の思想はどうでしょうか。大陸の人に比べて日本人は淡白で、墓の中での暮らしへの執着は弱いようです。ただし埴輪には幾分明器と似通った面があるように感じるのですが、天皇陵が本格的に発掘調査されるまでは、明快な結論は出し難いかも知れません。