ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

39. 毛沢東の「人民公社」 工・商・農・学・兵が結合した「政社合一」の農業集団化機構

 中華人民共和国の父と言われた毛沢東は、学生時代、魯迅の弟、周作人が中国に紹介した、武者小路実篤の「新しき村」に自分が求めていた「小さな連合」を見つけ、長沙西岸の湘江をへだてる岳麓山のふもとに新しき村の建設を計画しました。しかしその時には地元の人間から理解されず実現にいたりませんでした。

 後に毛沢東人民公社を創設しました。

 人民公社は、中国において1958年から1982年の間に、農村を基盤として普及した、政治や経済、さらに文化、軍事までをも含んだ農業集団化機構です。


 工・商・農・学・兵が結合した「政社合一」の組織であり、農業生産の他にも、行政、経済、学校、軍事、医療などを合わせもった組織体でした。

 1958年に開始された大躍進政策の実行単位として組織されましたが、1962年の条例で、人民公社・生産大隊・生産隊の三級所有制として再編されました。文化大革命後の1978年には、農業政策の大転換が実施され、その後の  改革開放政策のもとで、人民公社は次第に解体されていくこととなり、1982年の憲法改定によって、政社分離が打ち出されたことによって活動を停止ししました。

 毛沢東人民公社の設立に共産主義への夢を託していましたが、現状に対応した具体的な部分が的確ではなく、矛盾した部分が多く失敗に終わりました。

 

 

中国において職場での仕事とプライベ-トな用事との間にあまりビシッとした線がないのは、中国の革命の歴史とも若干関係する。というと堅苦しいが、要するに、毛沢東の行った革命は農村革命であったわけだが、もともと農民の生活においては、労働とプライベ-トな生活はそれほどハッキリとは分かれていなかったのだ。

 

労働の場が生活の場でもあった。この農村の姿を理想主義的に極端にまで突き詰めたのが人民公社だったのだ。人民公社では、各構成員の生活は全て人民公社が面倒を見るが、その代わり各構成員は個人の利益を追求せずに人民公社のために働くことが要求された。この考え方を具体化させた一つの例が公共食堂制度である。各構成員には三食とも無料で公共食堂から食事が提供されることになり、女性は家事労働から解放された。

 

しかし、この理想的な共産主義制度には、プライベ-トな生活への配慮が足りなかった。「メシくらい家族だけで家で食べたい。」「余裕のある時間で、自分の作りたい農作物を作って、個人的な生活を向上させたい。」という農民たちの自然な願望によって、高き理想に燃えた人民公社は20年余りの間に消滅していったのである。

 人民公社は今では完全に解体してしまったが、「各構成員の生活は全て人民公社が面倒を見る」という感覚はまだ中国社会に色濃く残っている。というより、国民一人当たりの収入がまだかなり低く、公共の社会資本の充実が不十分な現在の中国においては、本来個人的に解決すべき問題も職場が面倒を見るよりしかたがないのである。職員の家の風呂の普及率が低かったら、職場でなんとかするのは、それなりに当然な発想なのである。

 

土地・住宅の面での社会資本の充実が不十分な日本において、職員の住宅取得の困難さに対して職場が社宅を提供することによって面倒を見るのと同じ考え方なのである。