ユートピア研究

『見つけ出すもの』ではなく『作り出すもの』、それがユートピア

27. 世界中に現れたヒッピー村

 

 

 




 オランダのヒッピー楽園村「クリスティアニア」

~無政府主義の人民解放国家~


 デンマークの首都コペンハーゲンのど真ん中に、軍基地跡をヒッピーたちが占領して作った解放区がある。「クリスティアニア」と呼ばれる自称「独立無政府主義国家」である。現在約二千人位が住んでいる。場所は結構広くて、川も流れている。そこに住みたい人はほかの人の許可を得れば、空いている場所に自分の家を建てる。基地の建物も当然残っているが、もう全部使われている。

 中で散歩してみると、ドーム・ハウス、ピラミッド、色々立っている。落書きも豊富にある ー 無政府主義のやスクオッター(占拠者運動)の、あるいはクリスティアニアのシンボルになっている三つの丸。その三つの丸の主な意味は二つある。デンマークで画龍点睛のことをiの上の点という。Christiania という名前にそういう点が三つもある。(ところで、クリスティアニアという名称がキリスト教とは関係ない、ただの地名である)。
 そしてクリスティアニアには法律やルールはない代わりに規則が三つある ー 暴力や武器無し、自動車無し、ヘロインやコカインのハード・ドラッグ無し(ただマリファナは中毒性がなくて、体に悪くないという理由で許されている)。そのほかにルールらしきものといえば、電気や水道を利用している人はそれをきちんと払うこと。後は完全に自由である。北欧の人は裸になることを「はずかしい」とかあまり感じないからクリスティアニアの中でも普段裸で歩いている人が沢山いる。犬を飼っている人も多いが、野良犬や捨て犬も数多く走り回っている。クリスティアニアにいれば皆に親切に扱われるからそこにいつくだろう。 

 仕事も勿論自分の責任として任されている。クリスティアニアの中にペチカなどの工場があって、菜食レストラン、バー、床屋(どんな髪方にでもしてくれる)、本屋、ヨガ教室もある。クリスティアニアで作られている自転車も変わった形していて、高評で世界中輸出しているみたい。クリスティアニアのラジオ放送局もある。外で働いている人も沢山いる、失業者救済金を受けている人もいる。 

 クリスティアニアの周りのコペンハーゲン人はよく日曜日をクリスティアニアで過ごす。昼飯をレストランで食べて、その後バーでビールを飲みながらライブを見る、あるいは川でスキン・ディップ(裸で泳ぐ)することほど楽しいことがあまりない。ただ歓迎されないのは許可なしに勝手にテントを張って泊まってしまう人と、写真を取り捲くる人。クリスティアニアは観光地ではない。商品でもない。クリスティアニアに入る時はクリスティアニア人の生活を尊重しなければならない。真面目に住みたい人やクリスティアニアを勉強したい人ならいいが、面白がって利用する人は当然嫌われる。




 米国カリフォルニアのヒッピー生活共同体「ケリスタ」

~フリーセックス集団から優良企業コンサルタントへ~


1980年代後半、カリフォルニア州北部で最大のマック・ディーラーは、コンピューター量販店などではなく、サンフランシスコのヒッピー文化の中心地、ヘイト・アシュベリー地区に存在したグループ婚コミューン(生活共同体)だった。

 70年代に結成されたこの生活共同体『ケリスタ』は約30名のメンバーを擁し、「ポリフィデリティー」(多夫多婦制の家族形態)を実践していた。メンバーは夜毎、異なる相手とベッドに入った。ただし相手は同一グループ内の人間に限られ、毎日、その夜の組み合わせがマックのスクリーンに表示された。
 しかしケリスタ共同体は、単なるフリーセックス集団ではなかった。彼らは仕事にも大いに精を出した。 

 もとは細々とハウスクリーニング業を営んでいたのだが、ものの5年ほどの間に、カリフォルニア州北部最大のマッキントッシュのディーラー兼コンサルティング企業に変身したのだった。彼らが立ち上げたアバカス社は、『インク』誌が毎年発表する「米国の上位急成長企業」リスト入りを3年連続で果たした。

 全盛期のアバカス社の売上は3500万ドルに達し、125名の従業員を擁した。そして米パシフィック・ガス&エレクトリック(PG&E)社、米ユナイテッド航空、米パシフィックベル社など、多くの優良企業を顧客に抱えていた。 

 アバカス社は、サンフランシスコの金融街とサンタクララに豪華なトレーニング・センターを開設し、また、3つの大型の修理施設と巨大な倉庫を1つ運営していた。さらには、ネットワークと出版に関するコンサルティング事業部も設け、コンピューター・スタッフの人材派遣業にまで手をひろげていた。

 「素晴らしい会社だった。誰ももはやわれわれのことを馬鹿にするわけにはいかなくなった」と話すのは、共同体の元メンバーの「ラブ」さん。ラブというのは共同体における彼の呼び名で、記事にはこの名で書いてほしいとのことだった。「会社を運営していたのは、けばけばしいヒッピースタイルの人間で、おおかたが若く、美男美女タイプだったが、マックへの改宗を説くのがとても上手かった」 

 同じく元メンバーの「サン」さん(写真)によると、ケリスタは科学的ユートピアを創るべく結成されたのだという。だが彼女は、とりわけ共同体の性的に自由な精神に惹きつけられたのだった。 
 「ポリフィデリティーを実践する男が大勢いたわ。私にはそれが魅力的だった」とサンさんは笑顔で話す。
 今や彼女も40代。長いブロンドの髪を持つ魅力的な女性だ。サンさんは現在、シリコンバレーから少し距離を隔てた片田舎、ボールダー・クリークに住んでいる。実家は裕福だったが、ケリスタに参加したことで、勘当されてしまったのだった。

 共同体は4つの「家族」、つまり「親友単位集団」から成っていた。各単位集団内の男女の数は釣り合いがとれており、メンバーは、同じ集団に属する6、7人の相手とのみ寝ることができた。メンバーは皆、20代から30代。唯一例外はブロ・ジャドと呼ばれた共同体の創立者で、彼は60代だった。 
 共同体には「誘惑班」があり、この班に属する魅力的な女の子たちがパーティーで新しいメンバーを勧誘してくるのだった。男たちは彼女たちと寝るように誘われるのだが、そのためには共同体に参加する必要があった。そしてそれは同時にパイプカットを意味した。
 「当時、共同体にはすでに子どもが2人いた」とサンさんは言う。「どこの家庭とも同じように、子どもは2人で十分と考え、それ以上の子どもをつくらないことに決めた。おむつで溢れかえってしまうし。一番いい避妊法は精管を切除してしまうことだった。それほど本気で共同体に身を捧げなくてはならなかったということね」 
 ケリスタはヘイト・アシュベリーで5軒ほどのビルやアパートを借りており、メンバー全員が、すべての部屋の鍵を持っていた。「皆が巨大な鍵輪を持っていた。女性が1キロもある鍵輪を持ち歩いていたのよ」とサンさん。 

 メンバーは、自分の収入を共同体の財源として差し出した。メンバーのポケットに入っていたのはつねに200ドル。何かにお金を使うと、細かく決められた区分に従ってレシートを提出し、その分のお金を共同体から払い戻してもらうのだった。 
 「皆お金のことは一切心配していなかった」とサンさんは話す。「お金はすべて共同体全体で管理された。まるで銀行口座に無尽蔵の預金のあるようなもの。年に1万5000ドルしか稼がなくても、年収5万ドルの生活ができたわ。でも私たちは浪費はしないで、中流階級の快適なライフスタイルを送っていた」
 サンさんが共同体に参加したとき、メンバーたちは、ハウスクリーニングや、庭仕事、無料のPR誌の出版といった仕事をしていた。

ユートピア的なテクノロジー社会の創造

 共同体にマッキントッシュを紹介したのはサンさんだった。マックは熱狂的な支持を受け、メンバーたちは即座に、副業として小さなDTPビジネスを立ち上げた。ほどなく共同体は、出版事業と小規模企業向けのコンサルティング・サービスを手掛け、フレデリック通りにユートピアン・テクノロジー社というコンピューターのレンタル店をオープンさせた。


 ケリスタ共同体は、米アップルコンピュータ社のディーラーとしてのライセンスを取得したことで大きく飛躍した。当時アップル社は、世界最大のパソコンメーカーだった。フェミニズムの精神を前面に押し出すため、共同体は4人の女性メンバーの名義でアバカス社を設立し、登記上は、女性オーナーが率いる会社とした。

 アバカス社の販売責任者だった「エバウェイ」さんは、当時アップル社の最高経営責任者(CEO)だったジョン・スカリー氏に対し、ディーラー網に女性オーナーの会社がないのはアップル社のイメージにとってマイナスになると持ちかけた。スカリー氏はこれをもっともなことと考え、アバカス社にライセンスを供与する手はずを整えた。
 彼らは10台のマックを仕入れ、即座に売りさばいた。ビジネスはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びた。アバカス社の初年度の売上は100万ドルに達し、その後毎年400%の成長を続けた。会社を女性オーナーという形式にしたことは大当たりだった。おかげでアバカス社は、大手企業や政府機関から「優先」契約を取り付けることができた。
 「ヒッピー集団にしてはよくやっていた」。現在はサンフランシスコのベイエリアにある新興企業の経営に携わっているエバウェイさんは当時を振り返って話す。「私たちは世界を変えることだけを考えていた」
 ラブさんは、アバカス社が成功したのはヒッピー的なビジネス倫理のためだと考えている。共同体は、ユートピア的なテクノロジー社会を創造したいと考え、顧客が確実に購入したマシンの使用法をマスターできるようにした。社のモットーは「アバカス:ビジネスを伴うビジョン」だった。
 「ライバル企業は皆、商品を届けてそれでおしまいだった」とラブさん。「われわれは、操作のトレーニンングからサポート、修理まですべてをこなした。ビジネスマンたちは、われわれのところへ来ればすべて事足りた」
 現在40代前半のラブさんは、いまなおサンフランシスコ半島にある家で3人のパートナーたちと共同生活を送っており、今は投資銀行で仕事をしている。
 サンさんは当時の自分たちについて「まったくのオタクだった」と言う。「とてもクールなオタクね」
 そうするうちにアバカス社は、米コンパックコンピュータ社の製品も販売しはじめた。皮肉なことに、ビジネスの成功は共同体にとっては弊害となった。急速に成長する企業を経営する重圧に耐え切れなくなったのだ。
 「われわれは経営のプロではなかった」とラブさんは言う。「数多くの誤った判断をし、非効率的な事業にしてしまった」
 コンピューターの価格が急落していった時期に、アバカス社は、引き取り手のない膨大な量の在庫を抱えていた。

 ケリスタ共同体は1991年に解散した。その1年後、アバカス社はデンバーを拠点とするサイバー社に合併された。サイバー社は米国中で経営に行き詰まったディーラーを傘下に収めていた。  合併により、仕事に残れたのは50名だった。そのうちの一部は現在もサイバー社に勤めている。手元には何も残らなかった。稼いだお金はすべて負債の返済に消えた。
 「アーティストのコミュニティーだった私たちは、コンピューター企業へと変身した。そして集団の文化がことごとく変わってしまった。仕事の虫に、ヤッピーのサイバーカルチャーにね」とサンさんは話す。
 「(私たちは)家族経営のコンピューター・ショップのようなものだった。ただ、母親と父親が30人いたけれど。真の経営管理など存在しなかった。大半のメンバーは、ビジネスで築いた財産で何か他のことをやりたがっていた。そして裕福になったおかげで実際それが可能になった、ハワイへ移住するとかね」
 「ビジネスは、小さな家族的共同体に、かつて目にしたことがないような巨額の富をもたらした」とアラン・ランデルさんは話す。ランデルさんはサンさんのパートナーで、彼女とともにバーチャル・ワールド・スタジオを立ち上げた。「そしてそのおかげで、現実に機能するユートピア的カルチャーという夢を描き、実際にその中で生きられるようになったのだ」